貧しい兄弟が天下統一を成し遂げる“奇跡の下剋上サクセスストーリー”、大河ドラマ「豊臣兄弟!」。いよいよ秀吉が関白となり、秀長も大大名に! これから兄弟の関係はどのように変化していくのでしょうか?
本コラム「豊臣秀長の時代を歩く」では、秀長、秀吉、そして、同じ戦国の時代を駆け抜けた者たちゆかりの地を巡ります。今回は滋賀県大津市の坂本を訪ねました。
※この記事はNHK財団が大津市と一緒に制作した冊子「『豊臣兄弟!』+大津市」の取材をもとに作成しています。
明智光秀が発展させた湖畔の城下町
琵琶湖と比叡山に抱かれた大津市坂本は、古くから都と北陸・東国を結ぶ要衝で、戦国時代には豊臣兄弟をはじめ、名だたる武将が行き交いました。

とくに、比叡山焼き討ちの後の元亀2年(1571)、織田信長からこの地域一帯を与えられた明智光秀は、琵琶湖畔に水城・坂本城を築きます。古くから水運・漁業が盛んな琵琶湖を臨み、比叡山延暦寺の門前町でもあった坂本ですが、当時は戦で荒れ果てていました。光秀はその地に城下町を整備。坂本は新たな文化・商業都市へと発展していきます。 宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次ぐ名城」とその壮麗さを称賛した坂本城でしたが、本能寺の変の後、光秀は謀反人とされ、城も秀吉軍の攻撃によって落城してしまいます。それでも地元の人々は、今も光秀のことを、まちを栄えさせた名君と慕っているのです。

光秀の菩提寺・西教寺も坂本でぜひ訪れたいところ。境内には光秀と明智一族の墓、光秀の正室・妻木煕子の墓があり、有形文化財に登録されている「宗祖大師殿唐門」(トップ画像)からは琵琶湖が一望できます。また、秀吉が築いた伏見城の御殿を移築したという客殿には、狩野永徳筆と伝えられる見事な襖絵も。作家の白洲正子や三浦綾子が愛し、作品にも登場する名刹です。

信長の焼き討ちを乗り越えた比叡山
坂本にゆかり深い人物といえば、最澄も忘れてはいけません。8世紀半ばにこの地に生まれたとされる最澄は、都での修行後、故郷の比叡山に延暦寺を開きます。
法然や親鸞、日蓮、道元らもここで修行したため「日本仏教の母山」とも言われます。凛とした空気漂う杉木立を歩くと、1200年にわたる聖山の荘厳さが感じられます。

また、信長の家臣・森可成の墓がある聖衆来迎寺も焼き討ちを乗り越えた寺です。森蘭丸の父としても知られる可成は、焼き討ちの前年の「坂本の戦い」で討死。寺の住職は敵方であったにもかかわらず、可成を手厚く葬りました。そのおかげで戦火を免れ、本堂や本尊・釈迦如来坐像など貴重な寺宝が残っています。

“猿”秀吉とゆかりの深い日吉大社
日吉大社は全国の日吉・日枝・山王神社の総本宮で、東西の本宮本殿は国宝に指定されています。秀吉の母が日吉神社に祈願したところ、懐に日輪が入る夢を見たのちに秀吉を懐妊したとされ、秀吉の幼名「日吉丸」もこれにちなむと伝わります。

坂本にまつわる2つの“猿”伝説をご紹介しましょう。
(1)日吉大社の「神猿」
比叡山に棲む猿は神の使いとされ、「魔が去る」「(何よりも)勝る」と縁起の良いものとされています。秀吉のニックネーム「猿」との共通点も指摘されています。
(2)西教寺の「身代わりの手白猿」
室町時代、ある騒動から比叡山の僧兵が住職の真盛上人を追い出そうと西教寺を襲いました。念仏の鉦が聞こえる本堂になだれ込むと、なんと鉦を鳴らしていたのは手白の猿。真盛たちを逃がそうと身代わりになっていたのです。僧兵たちは何もできず、その場を立ち去ったということです。
豊臣兄弟をはじめ、名だたる武将が行き交った大津には、ゆかりの場所が点在しています。戦国時代に思いをはせる絶好の場所です。是非、おでかけください。
(取材:粕谷優加 [NHK財団]、黒原康一郎)
(文:黒原康一郎)
(写真:Kosuke Kurata)
(取材協力:大津市)
この記事はNHK財団が大津市と一緒に制作した冊子「『豊臣兄弟!』+滋賀県大津市」の取材をもとに作成しました。
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