貧しい兄弟が天下統一を成し遂げる“奇跡の下剋上サクセスストーリー”、大河ドラマ「豊臣兄弟!」、はじまりましたね。これまであまり光があたることのなかった弟・秀長。ドラマではどのように描かれてゆくのでしょうか。
本コラム「豊臣秀長の時代を歩く」では、秀長、秀吉、そして、同じ戦国の時代を駆け抜けた者たちゆかりの地を巡ります。今回は奈良県大和郡山市の郡山城跡を訪れました。
※この記事はNHK財団が大和郡山市と一緒に制作した冊子「『豊臣兄弟!』+大和郡山市」の取材をもとに作成しています。
秀長に与えられた役割とは
豊臣秀長は晩年、大和、和泉、紀伊の3国を治める大名となります。畿内統治の拠点としたのが「郡山城」です。
郡山城はもともと地元の豪族が住んでいた場所(現・大和郡山市)に、信長の命を受けた筒井順慶が天正8年(1580)から天正11年の間に築城したものです。
しかし、順慶は天正13年、若くして病死。そこで、「関白・秀吉が大和国に送り込んだのが弟の秀長でした」と話すのは大和郡山市の学芸員、青山加奈子さん。
青山さん「この地はもともと、興福寺をはじめとする南都の宗教勢力の力が強く、治めやすい土地ではありませんでした。秀長は諸大名からの人望も厚く、適任だったと考えられています」
秀長は城の大規模改修に着手し、畿内統治の拠点にふさわしいものとします。

城の石垣が当時の様子をうかがわせます。秀長は多くの寺社などから大量の石材を集めました。
青山さん「石垣には自然石のほかに、礎石や地蔵、墓石など、様々な“転用石”が使われています」

わかりづらいですが、写真中央あたり、地蔵が見えますでしょうか? 頭部が下を向いていることから「逆さ地蔵」と呼ばれています。

天守台。青山さんが指さしているのは、かつての都、平城京の入口の門、「羅城門」に使われた礎石とされる石材。


城は内堀、中堀、外堀の三重の堀に囲まれています。その中に城郭の中心部や武家屋敷、城下町が配置されていたのです。

昭和58年に「追手門」、昭和62年に「追手向櫓」が市民の寄付によって再建されました。
秀長は城内だけではなく、城下町の整備にも力を入れ、この地の繁栄の礎を築きました。
いま、郡山城跡では、堀を囲むように植えられた600本の桜が春に人々の目を楽しませてくれます。
【耳寄り情報】
大和郡山市は金魚の産地として知られています。18世紀に金魚の養殖がはじまり、幕末には藩士の副業としても盛んにおこなわれたそうです。いまでは国内はもとより、海外にも輸出され、年間4,300万匹もの金魚が販売されています。

街を歩けば、あちこちで色とりどりの金魚が鑑賞できます。
大和郡山の“みどころ・観光情報”/大和郡山市 ※ステラnetを離れます
(取材・文:平岡大典[NHK財団] )
(動画撮影:Kosuke Kurata)
(取材協力:大和郡山市)
この記事はNHK財団が大和郡山市と一緒に制作した冊子「『豊臣兄弟!』+大和郡山市」の取材をもとに作成しました。
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