天正6年(1578)は、播磨はりま攻めに奔走していた豊臣兄弟にとってさんざんな年でした。

まず2月に、三木みきじょう(現在の兵庫県三木市に所在)の別所べっしょ長治ながはる(演:下川恭平)が織田方から離反しました。7月には、一度手に入れた上月こうづきじょう(現在の兵庫県佐用郡佐用町に所在)と、小一郎こいちろうながひで(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)が城代を務めていた竹田たけだじょう(現在の兵庫県朝来市に所在)が、毛利もうり氏によって落されました。

さらに10月には、有岡ありおかじょう(伊丹いたみじょう。現在の兵庫県伊丹市に所在)の荒木あらき村重むらしげ(演:トータス松本)が離反しました。

織田信長(演:小栗旬/左)と荒木村重

これらの離反は、将軍・足利あしかが義昭よしあき(演:尾上右近)と毛利氏の働きかけが大きかったと考えられます。このときの播磨は、ちょうど織田・毛利の両勢力に挟まれており、東隣の摂津せっつには、織田に敵対する大坂おおざか本願寺ほんがんじがありました。そうした状況下で、播磨の人々はどちらの味方につくべきか模索していました。

三木城の長治は、東播磨をほぼ差配している有力な人物で、早く天正3年7月以来、信長の味方でした。にもかかわらず、なぜ裏切ったのでしょう。

のちに羽柴はしば筑前守ちくぜんのかみ秀吉ひでよし(演:池松壮亮)は、長治との戦いを題材にした『播州ばんしゅう御征伐ごせいばつこと』という記録を、家臣の大村おおむらゆうに書かせています。

この記録では、長治の叔父・別所賀相よしちか(演:田中美央)が良からぬ人物で、「秀吉をこの地で好き勝手させたら災いが及ぶぞ」と長治を説得し、ついに信長に背き、三木城に立てこもったと記されています。秀吉の何らかの行為が、別所氏の反発を招いたことが推測されますが、具体的な事情はわかっていませんでした。

別所賀相(左)と別所長治

ところが、2024年にこの間の経緯を伝える史料が、東京大学の村井祐樹氏によって発見されました。

じつは長治が離反したとき、秀吉はすぐにそのことを信長に報告しなかったようです。事実を知った信長は、“長治は忠義者であるのにどうなっているのか!”と秀吉を詰問します。発見された史料とは、それを受けて秀吉が書いた、信長に対する弁明書のうつし(『羽柴文書写』)です。おおよその内容は次の通りです。

信長様よりのお尋ね恐れ入ります。様子は先の手紙でも申し上げ、また重ねて蜂須賀はちすか正勝まさかつ(演:高橋努)をそちらに向かわせましたので、正勝からも報告があるでしょう。

一、先にも申し上げましたが、昨年別所の家中の城8つを破却したとご報告しました(※前回のドラマで秀吉が命じていましたね)。しかし、そのうち糟屋かすやじょう(加古川城。現在の兵庫県加古川市に所在)は破却されていませんでした。それだけでなく別所賀相らが毛利に内通していることがわかりましたので、彼らから重ねて人質を取るよう長治に申しました。人質を出せば糟屋城は破却しなくていいと言いました。さらに、(秀吉たちが毛利方の英賀あがじょう[現在の兵庫県姫路市に所在]を攻めるため、その近くの)英賀にとりでを作ると申しておりましたが、長治の様子がおかしいので約束をたがえ、書寫山しょしゃざん圓教寺えんぎょうじ(現在の兵庫県姫路市に所在)を占拠し居城としたところ、長治の一党がこの間の経緯を不満に思ったのか陣所を引き払い、出奔してしまいました。

一、長治に関するご報告が遅れていた間にも、方々の調略を進めております。また圓教寺を居城とする工事が完成したので、ご命令次第、三木城を攻めます。遅くなっていたのは、播磨国内の事情を見極め、要害を準備していたからです。(中略)

追伸 ご報告が遅れましたことは決して油断ではありません。長治の考えや播磨の者どもの様子を確認していたので遅れたのです。信長さまにお執成とりなしください。

だいぶ省略してご紹介しましたが、秀吉の必死さを反映しているのでしょう、たいへん長文の手紙になっています。

秀吉によると、別所氏の勢力をぐためか、秀吉が城8つを壊すよう命じたことが、まず別所方の反発を招いたようです。さらに賀相らが毛利方に内通していると疑って、人質の追加を求めたこと、英賀に砦を築くと言っておきながら、(おそらく長治に断りもなく)圓教寺に砦を構えたことが挙げられています。

こうした秀吉の長治を軽んじるような、まさに“好き勝手”で高圧的な行動が続いたことで、長治は不信感を強め、ついには毛利方に寝返ったのだろうと推測されます(いかんせんこれは秀吉目線での弁明ですので、長治の立場からはもっと失礼だと感じる行動だったのかもしれません)。

さらに、秀吉は長治のもう一人の叔父・別所重棟しげむね(演:忍成修吾)の娘と、小寺こでら官兵衛かんべえ孝高よしたか(のちの黒田官兵衛孝高 演:倉悠貴)の子息の婚姻を進めていたことも指摘されています。これは長治にとっては、当主である自分を差し置いて、直接に別所家中に介入する行為です(当然、官兵衛の主君・小寺政職まさもとにとっても同じです) 。反発を感じるのも当然でしょう。

秀吉の弁明に、信長からは“了解した”との旨と“三木城を攻めるように、必要なら援軍を送る”との返事がきました。その後も、戦況をめぐって信長との間でまめなやり取りが交わされています。信長も播磨の戦況を注視していました。

長秀直彫りじゃなかった!?  圓教寺の柱に刻まれた“落書き”

この時期の秀吉の苦境は、“名乗り”にも見られることが指摘されています。秀吉は天正3年以降「羽柴筑前守」と名乗り、文書にも署名していました(コラム♯18参照)。しかし、天正6年後半以降の署名は「羽柴藤吉郎とうきちろう」に戻っているのです。この変化が誰の判断かはわかっていませんが、播磨支配の失敗により、いわば降格したと推測されます。

なおドラマでは、小一郎長秀が、ショックを受けた兄・秀吉の回復を願って圓教寺の柱に自らの名前を彫り込んでいました。圓教寺は由緒ある大寺院ですが、先ほどの信長への弁明書でも報告されていたとおり、天正5年に秀吉に接収され、陣所として改築されていました。

ドラマ終了後に紹介されましたが、この圓教寺には実際に長秀の名前が残されています。かつての摩尼まに殿でんの柱(現在は食堂じきどうに展示)に「羽柴小一郎内高井丁助」「天正六年」「近江浅井郡」などの落書きが彫り込まれているのです。ドラマでは長秀自身が彫っていましたが、実際に残っているのは長秀の家臣による落書きです。

圓教寺の食堂に展示されている旧摩尼殿の柱と「羽柴小一郎内高井丁助」の落書き  写真提供:書寫山圓教寺

また近江おうみ長浜の知善院ちぜんいんの本尊・阿弥陀あみだ三尊像は、もともとは圓教寺摩尼殿の本尊で、播磨出陣中の天正5年11月に長秀が知善院に寄進したものと伝わっています。長浜を本拠とする長秀が、播磨で戦っていた痕跡でしょう。

さて、豊臣兄弟は今後、どのようにこの苦境から抜け出すのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。