天正てんしょう10年(1582)の6月2日早朝、本能寺は焼け落ちます(当時の本能寺は現在地とは異なり、四条西洞院しじょうにしのとういんの付近にありました)。織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)は前日に入京しましたが、油断していたのか、警備は手薄でした。

明智あけち光秀みつひで(演:要潤)の軍は本能寺を取り囲み、夜明けに一気に攻め込みます。信長はしばらく応戦したのち切腹したようですが、その遺体はついに発見されませんでした。

信長の長男で後継者の信忠のぶただ(演:小関裕太)は、二条にじょう衣棚ころものたな妙覚寺みょうかくじを宿所としていました。本能寺からは1㎞も離れていない距離です。

騒ぎを知った信忠は、父の救援に赴こうとしますが間に合わず、妙覚寺の隣の二条御所に立てこもります。ここは正親町おおぎまち天皇の子である誠仁さねひと親王しんのうの御所でした。誠仁親王やその子たちはここからどうにか避難しましたが、信忠は明智軍との数時間の戦いの末、亡くなりました。

信長は49歳、信忠は26歳でした。謀反は速やかに成し遂げられたのです。

豊臣兄弟にとっても、大きな転機となる事件でした。このとき、羽柴はしば秀吉ひでよし(のちの豊臣とよとみの秀吉 演:池松壮亮)、そしておそらく羽柴小一郎こいちろう長秀ながひで(のちの豊臣秀長ひでなが 演:仲野太賀)も京から直線距離で200㎞近く離れた地で、備中びっちゅう高松城たかまつじょう(現在の岡山県岡山市に所在)を攻めていました(コラム#27参照)。

それでは、他の重臣たちはどこにいたのでしょうか。

柴田しばた勝家かついえ(演:山口馬木也)は、前田まえだ利家としいえ(演:大東駿介)や佐々さっさ成政なりまさ(演:白洲迅)らとともに、えっちゅう魚津城うおづじょう(現在の富山県魚津市に所在)で上杉氏と戦っていました。彼らのもとに本能寺の変の知らせが届いたのは4日後の6日になってからでした。

信長の3男・織田信孝のぶたか(演:結木滉星)と丹羽にわ長秀ながひで(演:池田鉄洋)は摂津せっつの住吉で、信長の弟・のぶかつ(演:中沢元紀)の子である織田信澄のぶずみ(演:緒形敦)は大坂おおざかで四国出兵の準備をしていました。次男・信雄のぶかつ(演:山脇辰哉)は、自らの居城・伊勢いせ松ケ島城まつがしまじょう(現在の三重県松阪市に所在)にいました。

一方、徳川とくがわ家康いえやす(演:松下洸平)は、安土城あづちじょう(現在の滋賀県近江八幡市に所在)で信長にもてなされたのち、堺を見物している最中。滝川たきがわ一益かずます(演:猪塚健太)は、武田氏滅亡ののち東国にとどまっていました。ここには9日に知らせが届いたといいます。

このように京は、光秀以外、織田家重臣が誰もいない状態だったのです。光秀は京を掌握し、朝廷は早くも6日には光秀に勅使を派遣しました。今後を委ねる、という天皇の命令を伝えたのでしょう。天皇のお墨付きは、光秀にとっては大義名分になります。

本能寺の変によって、国中が混乱状況に

本能寺の変の知らせを受けた信長の家臣や各地の武将たちは、それぞれに目の前の敵にどう対応するかとともに、“自分は光秀に味方をするのか、戦うのか”という判断に迫られました。

各地で混乱が起こります。ドラマで光秀をきつけていた信澄は、信孝・丹羽長秀軍に攻められ、6月5日に自害しました。のちに秀吉が家臣の大村おおむら由己ゆうこに書かせた『惟任これとう退治記たいじき』には、信澄は“光秀の縁者であり、信長にうらみがあった”と記しています。光秀の謀反を知っていたかどうかはわかりません。ただ光秀が、婿の信澄を新たな織田家当主として担ぎ、旗印とする可能性はあったことでしょう。

播磨はりま別所べっしょ重棟しげむね(演:忍成修吾)や近江おうみ京極きょうごく氏など、これまで織田に従っていた武将の中からも明智方に付く勢力が出ていました。

また、ドラマ上は小一郎長秀の妻・ちか(演:吉岡里帆)の父・安藤あんどう守就もりなり(演:田中哲司)にも影響が及びました。守就は天正8年、信長に追放された後、美濃みの逼塞ひっそくしていましたが(コラム#25参照)、本能寺の変の6日後、8日に稲葉いなば良通よしみち(演:嶋尾康史)の軍により殺害されたのです(史料によっては翌11年4月のこととされています)。

稲葉方の主張によれば、混乱の中、守就がかつての居城・北方城きたがたじょう(現在の岐阜県本巣郡北方町に所在)を取り戻し、再興をたくらんだためといいます。ただ実際には、同じ美濃の有力者である良通がライバルを倒す好機と考えたのかもしれません。

一方、秀吉の本拠・長浜城ながはまじょう(現在の滋賀県長浜市に所在)や、信長の居城だった安土城は、このときどのような状況だったのでしょう。

長浜城は、光秀の本拠・坂本城さかもとじょう(現在の滋賀県大津市に所在)、信澄の大溝城おおみぞじょう(現在の滋賀県高島市に所在)、そして信長の安土城からもさほど遠くない重要な地点にあります。主人不在の長浜城には、明智方の阿閉あつじ貞大さだひろ軍が攻め寄せてきました。城の人々はここを逃れ、寧々ねね(演:浜辺美波)は近江と美濃との国境付近の広瀬北村(現在の岐阜県揖斐川町)に身を潜めました。

安土城にいた信長の家族たちは、留守を預かっていた蒲生がもう賢秀かたひでの居城・日野城ひのじょう(現在の滋賀県日野町に所在)に逃れました。光秀は5日に安土城に入りました。

中国大返し=超スピード帰還はウソ? “事前準備”が鍵に!

さて、秀吉が本能寺の変を知ったのは、他の諸将より早く3日夜半でした。幸運なことに、秀吉はこれ以前から毛利氏との和睦交渉を始めていました。そこで秀吉は、毛利方に本能寺の変のことが伝わる前に和睦条件を緩めて、ただちに交渉をまとめていきます。

和睦条件は、毛利もうり輝元てるもと(演:濱正悟)らの身柄の保証のほか、備中高松城の城主・清水しみず宗治むねはるの切腹と城を明け渡すことを条件に、城兵を助命する、ということになりました。毛利氏も長引く戦いに疲れていたようです。翌4日、宗治は切腹し、備中高松城は開城しました。

かくして秀吉は畿内に向けて取って返します。いわゆる“中国大返し”です。

秀吉は7日に姫路城ひめじじょう(現在の兵庫県姫路市に所在)に戻りますが、その間も織田方の諸将とせっせと連絡を取っていました。秀吉も、そして光秀も、混乱の中でどれだけ味方を得ることができるかに奔走していたのです。ドラマの小一郎長秀も、味方を集めるためいろいろな人と懸命に交渉をしていましたね。

“中国大返し”といえば、超人的なスピードで駆け戻ったとのイメージがあります。このイメージは、秀吉自身がのちに「昼夜を問わず、休まず駆けつけた」と宣伝した効果が大きかったようです(大村由己著『惟任退治記』など)。

近年では、実際には強行軍とはいえ、普通の行軍スピードで、諸将と連絡を取り、味方陣営を固めながらの進軍だったことが明らかになっています。さらに前回のコラムでも触れましたが、信長の中国地方出陣が予定されていたことが、秀吉たちに幸いをもたらします。信長のため、道の整備や食料・乗り換えの馬などの準備がすでに調えられていたのです。これが、秀吉軍の行軍の大きな助けになったと指摘されています。

秀吉との和睦後、毛利氏にも本能寺の変の情報が伝えられました。しかし、その真偽をはかりかねたのか、秀吉軍を追撃しませんでした。これも秀吉にとって幸いなことでした。

またドラマでは、小一郎長秀が秀吉を奮い立たせるために「信長の遺体は見つかっていない」とその死をぼやかして伝えていました。じつは、秀吉が5日に茨木城いばらきじょう中川なかがわ清秀きよひで(演:すがおゆうじ)に宛てた手紙では、「信長様も信忠様も無事に危機を切り抜けて、膳所ぜぜ(滋賀県大津市内の地名)にいらっしゃる」と伝えています。実際に信長が生存しているか否かで、諸将の去就に影響があったことでしょう。

そうした信長生存の希望を打ち砕くためにも、光秀としては何としても遺体を発見したかったわけです。

小一郎長秀(左)と細川藤孝

諸将のうち、丹後たんご長岡ながおか藤孝ふじたか(ドラマでは細川藤孝 演:亀田佳明)・忠興ただおき父子は本能寺の変の情報が入ると、もとどりを落としました。忠興は、光秀の娘・たま(のちの細川ガラシャ)を妻にしており、光秀も味方として期待を寄せていた存在でした。髻を落としたのは、自分たちは光秀に味方しないという意思表示です。こうした様子を見ると、光秀は事前に藤孝父子や信澄に根回しをしていなかったようです。かなり突発的な謀反だったのでしょうか。

秀吉は彼らを味方に付け、さらに四国に出発する直前だった信孝、丹羽長秀とも連絡を取りました。そして9日には明石に到着し、ここで光秀に同調しそうな動きを見せる淡路島のかん氏に対応しています。

11日には尼崎、12日には摂津国富田とんだ(現在の大阪府高槻市)に着き、摂津の有力者・池田いけだ恒興つねおき(演:堀井新太)、中川清秀、高山たかやま重友しげとも(ドラマでは高山右近 演:市川知宏)と折衝しました。奈良の筒井つつい順慶じゅんけい(演:永沼伊久也)からは、秀吉に味方するとの起請文が届いています。

本能寺の変から間を置かず秀吉が戻ってきたこと、そして各地の有力者に対しきめ細かい“勧誘”を行ったことで、諸将は、謀反人光秀を討つという姿勢になったようです。

一方の光秀は、勝龍寺城しょうりゅうじじょう(現在の京都府長岡京市に所在)に入りました。秀吉のいる富田からはわずか10数㎞の距離です。両者の決戦が迫っています。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。