天正11(1583)年4月21日の賤ケ岳の戦いに勝利したのち、羽柴筑前守秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)軍は越前に攻め込みました。柴田勝家(演:山口馬木也)は本拠・北庄城(現在の福井県福井市に所在)の城下を焼き、城に籠りました。
23日には、北庄城に秀吉軍が押し寄せます。秀吉の弟・*美濃守長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)も、兄とともにいたことでしょう。
*長秀は天正11年3月から、小一郎の名乗りを美濃守に改めています(コラム#32参照)。

秀吉がのちに小早川隆景(演:山本浩司)に送った手紙には「勝家に一息をつかせては、手間がかかることになるかと、私・秀吉は考えた。日本の政治の帰趨が決まるのはこのときなので、わが軍の兵どもを討死させても秀吉の不覚ではないとふっつと思い切り、24日の早朝寅の刻(午前4時前後)に城へ取りかかり、午の刻(正午前後)に城へ乗り入れ、敵の首をみな刎ねた」と記され、勝家との戦いへの強い決意がうかがわれます。
北庄城落城の様子は、秀吉がのちに家臣・大村由己に書かせた記録『柴田合戦記』に詳細に描かれています。
秀吉は、勝家を助けてはどうかという側近の勧めを退け、城を攻め立てました。勝家は、股肱の家臣たち80数名とともに立派な天守に入り、最後の宴会を盛大に行いました。ご馳走を並べ、語り合い、歌い、舞い踊りました。そして深夜、勝家と妻の市(演:宮﨑あおい)は、寝室に戻り、互いに想いを語りました。
勝家は市に「あなたは織田信長(演:小栗旬)の妹であり、秀吉も悪いようにはしないでしょう。明朝敵陣に送り届けますから」と退去するよう説得します。しかし、市は「私は冥途黄泉までもご一緒にと誓いました。たとえ女人であっても心は男子に劣りません。ともに自害して、極楽浄土であなたと同じ蓮台に産まれることを願っております」と言い、城に残りました。
ただし、市の娘たち、茶々(演:井上和)・初(演:田牧そら)・江(演:西川愛莉)は城を出て、秀吉に保護されました。3人とも10代前半の少女でした。

秀吉軍は早朝に城内に攻め入り、昼には制圧しました。奮戦した勝家は、天守の最上層から「わが切腹を見よ!」と呼ばわります。市や女房たちは念仏を唱え、勝家は自ら刀を取って一人一人刺し殺しました。そして自らは刀を「左手の脇に差し立て、右手の背骨へ引き回し、返す刀にて心のもとより臍の下まで断ち切って、五臓六腑を掻き出(す)」――すなわち、十字に腹を切り、内臓をつかみ出すという凄絶な切腹を遂げました。
このようにして市と勝家は亡くなったといいます。
なお、勝家の嫡男(養子とも)・権六は(コラム#30参照)、北庄城落城後、敦賀を目指して落ち延びようとするところを捕らえられ、首を切られました。その首は京で晒されました。茶々たち三姉妹とほぼ同年代の幼さでした。
有名な市の肖像画(下図)は、市の七回忌に娘の茶々が描かせ、奉納したものと伝わっています。在りし日の市の面影を伝えるものでしょう。

東京大学史料編纂局蔵 模本 原本:高野山持明院所蔵

織田家最強のライバルを倒し、天下への道を着々と歩む秀吉
秀吉はさらに加賀に進軍し、加賀・能登・越中の国々を平定。4月28日に金沢城(現在の石川県金沢市に所在)に入ります。ここで新たな支配地の定めを行い、さらに越後の上杉景勝から人質をとって、安土城(現在の滋賀県近江八幡市に所在)に凱旋しました。

北庄城落城の知らせは、すぐに岐阜城(現在の岐阜県岐阜市に所在)の織田信孝(演:結木滉星)に伝わりました。岐阜城には信孝の兄・信雄(演:山脇辰哉)が攻め寄せ、信孝は降伏、数日後に自害しました。反秀吉の重鎮のもう一人、滝川一益(演:猪塚健太)も7月には降伏、出家しました。
戦後処理として、秀吉は所領の大幅な再配分を行いました。
勝家の支配していた越前と加賀の半分は丹羽長秀(演:池田鉄洋)に与えられました。前田利家(演:大東駿介)は処罰されることなく、加賀国の残り2郡と能登が与えられ、以後金沢城(尾山城)を本拠とします。そして美濃守長秀は、播磨・但馬の2国を得て、姫路城(現在の兵庫県姫路市に所在)の主となりました。

強敵が消え、織田家の宿老たちによる合議制ももはや崩壊状態です。天下人への道を着々と歩む秀吉ですが、次なる相手は誰になるのでしょうか。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。