織田信長(演:小栗旬)亡き後、清須会議で宿老たちの合議による政権運営体制が新たに発足しました(コラム#30参照)。しかし、ドラマでもぎすぎすした雰囲気がただよっていたように、早くも雲行きが怪しくなっているようですね。
天正10年(1582)10月11日~17日、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)は京の大徳寺で信長の追善法会を大々的に行いました(開催自体は9月9日には決まっていました)。喪主は信長の子で、秀吉の養子となっていたお次秀勝(演:柊木陽太)です。信長の遺体は見つからなかったので、棺には木像を収めました。また法会に先立ち、正親町天皇は、信長に従一位太政大臣という最高の官位を追贈しました。
秀吉は家臣の大村由己に、本能寺の変からの一連の出来事を題材とした記録『*惟任退治記』を書かせています(*明智光秀[演:要潤]は晩年、惟任光秀と名乗っていました)。この記録の最後は、大徳寺で行った葬儀――まさに秀吉が信長の仇を討ち、その跡を継ぐという象徴的場面で締められています。つまりこの法会は、秀吉が信長の後継者であることを見せつけるためのものだったのです。
しかし、信長の孫で新しい織田家当主となった三法師をはじめ、信長の次男・信雄(演:山脇辰哉)、3男・信孝(演:結木滉星)、柴田勝家(演:山口馬木也)らの姿は見えませんでした。「信雄・信孝勢が法会の妨害のために上洛する」という噂さえ流れていました。
法会当日は、そうとうに不穏な雰囲気だったようです。

小一郎長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)は、法会の警備の責任者を務め、蓮台野の火葬場から大徳寺までの道中を、3万人の大軍で警備しました。
ドラマの小一郎長秀は葬儀前から秀吉とともにいましたが、実際は中国地方にいました。毛利氏との関係もまだ落ち着いておらず、そちらに備えていたのです。10月初頭に秀吉から法会の警備を命じられますが、その命には、山陰方面の動きが不穏であればそのまま対処するように、と添えられていました。
結局、小一郎長秀は上洛し、無事に大徳寺での警備の重任を務めました。
一方、勝家は1か月前の9月11日、京の妙心寺で信長の百日忌を執り行っています。喪主は、信長の妹・市(演:宮﨑あおい)です。市は法会で「越之前州(越前)居住」と表現されていることから、この時点ですでに越前の勝家と市が結婚していたことがわかります。
このように清須会議から3か月強しか経っていないにもかかわらず、織田の重臣たちは別々に信長の追善供養を行っているのです。これはどうしたことでしょうか。

できたばかりの新体制が崩壊寸前! その理由は?
新体制が崩壊し始める発端の一つは、信雄と信孝の争いでした。清須会議で信雄は尾張を、信孝は美濃を所領として得たのですが、その国境をめぐって争いが生じたのです。
また秀吉が、山崎の戦いの舞台・山崎(現在の京都府乙訓郡大山崎町)に山崎城を築いたことも影響します。京都からほど近い重要地点を掌握しようとする秀吉の行為に、信孝や勝家が反発したのです。

勝家は10月6日に、織田家重臣の一人・堀秀政に書状を認めています。その中で、「秀吉が清須会議での決定に背いて宿老たちの合意を得ずに行動している」「秀吉は私的に新たな城を構えているが、誰を敵と考えているのか」と批難しています。そして「信長様が苦労して治めてきた国を友喰により、敵に取られるのは本意ではないが、秀吉がそのつもりなら無念至極だ」と結んでいます。すでにかなり険悪ですね。
さらに、三法師の所在も問題となっていました。
三法師は織田家当主として、信長最後の居城・安土城(現在の滋賀県近江八幡市に所在)に入るべきところです。しかし安土城は、本能寺の変の混乱で一部が焼失。その修理が済むまで、亡き父・信忠(演:小関裕太)の居城だった岐阜城(現在の岐阜県岐阜市に所在)に滞在していました。
ところが、岐阜城の城主は叔父の信孝に替わっています。三法師を預かるかたちになった信孝は、自らが三法師の名代(当主代理)のようにふるまい始めます。こうした信孝の動きを牽制するため、秀吉は安土城の修理を急がせ、信孝の手許から三法師を引き離そうとしていました。

このような流れの中で織田家中の対立は深まり、信長の追善法会も、秀吉主催、勝家主催と別々に行われることになったのです。
秀吉主催の法会には、丹羽長秀(演:池田鉄洋)の代理、池田恒興(演:堀井新太)の子息・輝政、細川忠興らが参加しました。清須会議の4人の宿老のうち、この2人は秀吉寄りの立場を取ったのでしょう(とはいえ自身が参列するのは見送ったようですね)。なお、勝家主催の百日忌の参列者に関しては、史料がなくわかっていません。
秀吉はさらに諸将の掌握を進めていきました。
そうした中、追善法会後の18日、秀吉のもとに信孝から、勝家との間を取り持とうとの申し出が届きました(手紙を出したのは法会の前のようです)。これに対し秀吉は同日付で、申し出の拒否と信孝を弾劾する長文の手紙を信孝の重臣に送ります。さらに月末には、丹羽長秀や恒興と話し合った結果、勝家に加担して信孝が謀反を企てたため、三法師にかえて信雄を新たな織田家当主とする、と宣言しました。
秀吉はまだ織田家家臣であるという姿勢を崩していませんが、清須会議の4人の宿老のうち、勝家1人を仲間から外したかたちです。また当主・三法師の名代のようにふるまっていた信孝も、勝手に当主が変更され権威の拠りどころを失います。当然、信孝と勝家は反秀吉の立場で結びつきます。
12月9日、秀吉は勝家の甥・勝豊の守る近江長浜城(現在の滋賀県長浜市に所在)に向けて出陣しました。
信長の死後、新体制となって半年もたたないうちの急展開です。織田家はどうなるのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。