
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)は、天正13年(1585)7月11日にとうとう関白になりました。これは朝廷の官職の中で最上位の地位です。尾張のさほど身分の高くない家から出発した人物がこのような地位に昇るのは、もちろん初めてです。
そもそも前年の前半まで、秀吉は朝廷での正式の官位を持たない無位無官の立場でした(「筑前守」は私的な名乗りです)。ところが、天正12年10月に五位少将とされると、翌月には従三位権大納言、天正13年3月に内大臣と一気に昇進しました。
急激な昇進だったので、書類上は日付を遡らせて、天正10年に従五位下左少将、天正11年に従四位下参議になったことにしています。こうしたやり方は、この時期の武士によく見られます。
秀吉の急な官位叙任の背景には、ドラマで前回描かれた織田信雄(演:山脇辰哉)・徳川家康(演:松下洸平)との戦い(小牧・長久手の戦い)がありました。長期戦となる中、2人より上位の官位を得ることで箔をつけて、自らの正当性を確保しようとしたと考えられています。
天正13年2月、信雄は秀吉の許に挨拶に赴きました。このとき、羽柴秀長(演:仲野太賀)が接待役を務め、信雄は秀長の屋敷に滞在しています。そして3月に秀吉が権大納言から内大臣になると、入れ替わりに信雄が権大納言に任じられました。信雄にとっても大昇進ではありますが、明確に秀吉の下位に位置付けられたのです。
ここで時間を巻き戻して、秀吉の関白就任に至るまでの過程を見ていきましょう。
ドラマでは、秀吉が摂関家の一つ、近衛家の前当主・龍山(出家前の名は前久 演:前野朋哉)と対面していました。そこでも触れられていたように、秀吉と龍山はほぼ同い年です。

龍山は元関白太政大臣と高い身分ですが、若いころから、越後の上杉謙信(演:工藤潤矢)を訪ねたり、織田信長(演:小栗旬)と親しく付き合ったり、また他の大名との仲介を務めるなど活動的な人物でした。
本能寺の変の折には、明智光秀(演:要潤)に味方したのではないかと疑われ、出家して駿河の家康の許に逃げ込みました。天正11年9月、家康のとりなしで一度帰京しますが、小牧・長久手の戦いが勃発すると、今度は家康に味方したと疑われ、再び京を離れ、隠棲していました。
では、なぜ秀吉はこの龍山に声をかけたのでしょうか。
当時、摂政・関白に就任することのできる摂関家は藤原氏のなかの5家(近衛家、九条家、二条家、一条家、鷹司家)で、このときの関白は二条家の昭実でした。昭実に次ぐ左大臣には、龍山の子・信輔(のちの信尹)がいます。
秀吉が急速に昇進し内大臣になると、信輔は自らの左大臣の職も近いうちに秀吉に譲らざるを得なくなるのではないかと危惧します。そこで辞任に追い込まれる前に、何としても関白になりたいと望み、昭実に譲ってくれるよう交渉しました(天正13年5月ごろか)。
しかし、昭実もこの年2月に関白に就任したばかりでした。昭実が信輔の申し出を断ったことで、2人の間で争いが発生しました。争いは5月下旬には天皇の許に持ち込まれ、さらに昭実は秀吉にも訴え出ました。近衛家の側でも、6月に信輔、ついで龍山が自ら大坂に赴き、信長から与えられた秘蔵の長船光忠の刀を献上するなどして、秀吉に信輔の関白就任を願います。

このような働きかけを受けた秀吉ですが、なんと自らが龍山の養子となって関白になると提案してきたのです。一度関白になったら、すぐに信輔に譲る、また領地を加増するから、との条件でした。思いがけない成り行きですが、二条家への対抗もあり、近衛家は不承不承、秀吉の申し出を受け入れます。かくして秀吉は関白に就任することになったのです。
秀吉は摂関家の内部対立に乗じて関白になった、とよく紹介されていますが、その対立が発生するそもそもの要因、信輔が関白任官を焦った理由は、秀吉にあったわけですね。なお、秀吉は藤原氏である龍山の養子として関白になったので、このときの名は「藤原秀吉」です。「豊臣」を名乗るのは、もう少し先のことになります。
ちなみに、秀吉は関白になっても、大臣としてはこのときは内大臣に留まったので、信輔が左大臣の官職を失うことはありませんでした。ただ、翌天正14年には、秀吉は右大臣・左大臣を飛び越え、一気に太政大臣に昇ります。
秀吉が「将軍」ではなく「関白」を選んだ理由
武家のトップというと、鎌倉幕府・室町幕府と同じように征夷大将軍のイメージがあります。なぜ秀吉は、征夷大将軍ではなく関白を選んだのでしょう。
古くは「秀吉は源頼朝や足利尊氏のように源氏でないので、将軍になれなかったのだ」「足利義昭(演:尾上右近)に養子になることを打診したけれども断られたのだ」などと考えられていました。しかし、将軍は源氏でなければならないという決まりはありません(鎌倉幕府には藤原氏の将軍が2人います)。これは、江戸時代に作られた話のようです。
秀吉が将軍を選ばなかった要因の一つには、義昭がまだ現役の将軍だったことが大きかったのでしょう。義昭は信長に追放された後も官職はそのままで、毛利氏の許に滞在していました。秀吉はすでに内大臣という、将軍よりかなり格上の官職を得ています。さらに関白の地位を手に入れる機会が訪れ、それを逃さず掴んだのだと考えられます。
秀吉自身にとっても思いがけない機会だったためか、7月3日の四国への出陣予定をにわかに取りやめ、上洛して11日に関白となりました。後年、秀吉は「関白とは天皇から御剣を預かり、天下を切り従える役という。であれば摂関家より自分がふさわしい」と語っています。

一方、秀長はその頃、土佐の長宗我部元親(演:磯部寛之)と対峙していました。元親は引き続き四国の統一を目指しており(コラム#26参照)、柴田勝家(演:山口馬木也)との争いや小牧・長久手の戦いでは、秀吉軍と対立する立場を取っていました。
じつは豊臣兄弟は、信雄・家康と和睦したのちも、この2人に味方した反・秀吉勢力と戦い続けています。越中の佐々成政(演:白洲迅)、紀伊の雑賀・根来衆、そして土佐の元親らです。
秀長は天正13年3月から、まず紀伊を攻略。雑賀・根来衆を退けると、5月には秀吉から紀伊・和泉の2か国が与えられました。一躍大大名です。そして、紀伊に和歌山城(現在の和歌山県和歌山市に所在)を築きはじめました。
続けて6月から、秀長は四国攻めの大将として出陣します。元親はこのころ土佐・阿波・讃岐・伊予の四国全域をほぼ制覇していました。秀吉は当初、元親に対し「伊予・讃岐を返上すれば、土佐・阿波は与える」と交渉しています。しかし話がまとまりかけたところで、伊予の対岸、備後の小早川隆景(演:山本浩司)が伊予の支配を望み、秀吉がこれを認めたことで再度紛糾し戦になりました。
秀長軍は淡路島を経由して阿波から、蜂須賀正勝(演:高橋努)・黒田官兵衛(演:倉悠貴)らは讃岐から、隆景らは伊予から、と三方から四国に攻め込みました。秀長軍は一宮城(現在の徳島県徳島市に所在)を落とし、元親の白地城(現在の徳島県三好市に所在)に迫ります。正勝の尽力もあって、最終的に8月には元親は降伏し、土佐一国は安堵されました。
秀長は、兄の名代として続けざまに大きな戦をやり遂げています。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。