天正8年(1580)、三木城(現在の兵庫県三木市に所在 コラム#24参照)を落とした豊臣兄弟はさらに攻略を進め、播磨・但馬を手中に収めます。さらに北西に隣接する因幡に入り、天正9年10月末、毛利氏の重臣・吉川経家の守る鳥取城(現在の鳥取県鳥取市に所在)を、凄惨な兵糧攻めの末に落としました。
鳥取城には宮部継潤(演:ドンペイ)が城代として入ります。羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)は、戦功をあちこちに宣伝し、この頃から再び羽柴筑前守を名乗るようになります (コラム#22参照)。ようやく面目を取り戻したのでしょう。
秀吉は姫路城(現在の兵庫県姫路市に所在)を拠点に、弟長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)と共に、さらに伯耆や淡路、備前、備中など中国地方各地で戦いました。

そうした中、天正10年早春には、信長の子で秀吉の養子となっていたお次秀勝(演:柊木陽太)が、備前児島の城攻めで初陣を遂げました。その知らせは、速やかに甲斐・武田勝頼を攻略中だった織田信長(演:小栗旬)の許に届きました。
秀勝は天正8年より以前に秀吉の養子になったと推測され、初陣のころは数え15歳の若武者になっていました。信長の秀吉への信頼の深さと、秀吉の織田家中での重みがわかりますね。ちなみに“お次”とは秀勝の幼名で、同名の人物が複数いるので区別するため、一般にこう呼び習わされています。
そして5月初頭から、秀吉たちは毛利方の清水宗治を城主とする備中高松城(現在の岡山県岡山市に所在)を包囲しました。ほんとうに間断なく戦が続いています。
一方、今週の放送序盤、信長の弟信勝(演:中沢元紀)の子・織田信澄(演:緒形敦)が、刺客に襲われた信長を、身を挺して守っていました。信長はその姿に、信勝の面影を見出したようです。信勝はドラマでも以前描かれたように、かつて織田家当主である兄に謀反を起こし、殺害されています(コラム#06参照)。
信澄が四国の長宗我部元親(演:磯部寛之)と通じていたことが判明すると、信長は一転、今回の刺客事件も信澄が手引きしたのではないかと疑います。しかし信澄は、元親とは四国の切り取り(領土拡大)を諦めてもらうための談判をしていたのだ、と申し披きをしていました。改めて、信澄とはいったいどのような人物なのか追ってみましょう。
信長に父を殺されても織田家の有望株に成長した信澄

信澄は、先にも紹介したように信勝の子で、信長の甥です。信長に父が殺害された永禄元年(1558)前後に生まれているため、本人に父の記憶はなかったでしょう。今回ドラマで描かれた天正10年(1582)には20代後半になっています。
父信勝の死後、信長の命令で、信澄は信勝の重臣でもあった柴田勝家(演:山口馬木也)に養育されました。天正2年(1574)ごろに元服し、以後、活躍が見えるようになります。天正6年2月には、琵琶湖西岸の重要地である近江高島郡を与えられ、大溝城(現在の滋賀県高島市に所在)を築きました。
天正9年の大規模な馬揃(騎馬を華やかに装って行う軍事パレード)では、信長の嫡男・信忠(演:小関裕太)、次男・信雄(演:山脇辰哉)、信長の弟信包、信長の3男・信孝(演:結木滉星)に次ぐ序列5番目の位置にいました。
妻は、明智光秀(演:要潤)の娘です。この妻との間に長男が天正7年に産まれていますので、結婚はそれ以前となります。あるいは、光秀の坂本城(現在の滋賀県大津市に所在)にほど近い高島郡を与えられた頃でしょうか。大溝城築城の縄張り(設計)は光秀が行った、との伝承もあります。
奈良興福寺の僧は、信澄を「一段と勝れた人物」と評しています。活躍ぶりを見ても、信澄は信長の一族として期待され、結果も出していたと推測されます。

元親との約束を反故、光秀の面子をつぶした信長の心変わり
一方、四国の長宗我部元親はどのような人物だったのでしょうか。
またまた少し時代を遡ります。土佐の戦国大名だった元親と信長の交流は、天正6年ごろから確認できます。この頃の信長は、大坂本願寺や阿波三好氏、三好三人衆らと戦っていました。そのため敵の背後にいる有力者・元親と同盟しようとしたと考えられます。
天正6年には、信長から元親の息子が「信」の字を与えられ、「信親」と名乗ることになりました。このように名前に一字を与えられるのは、その人物に認められた名誉であり、その人物を上位者として仰いでいる証しでもありました。
また元親の阿波への出陣も信長から認められています。こうした様子から、元親はこの時期、信長の配下に近い同盟関係だったと考えられます(かつての浅井長政[演:中島歩]と信長のような関係でしょうか)。

信長と元親の仲介をしていたのが光秀でした。
光秀の家臣に斎藤利三(演:内藤剛志)という人物がいます。利三の兄・石谷頼辰の義妹が、元親の妻でした。また利三の妹婿は元親に仕えています。
こうした人間関係もあり、光秀が仲介を務めていたと推測されます。元親から、四国各地での戦いの詳細な状況を光秀(を通して信長)に報告している手紙も残されています。このように元親は、信長の承認のもと、阿波・讃岐・伊予と四国全体に手を伸ばしていました。
ところが天正8年、大坂本願寺に勝利したことで、信長にとって元親の利用価値が下がったようです。また同時期、信長が元親の敵対勢力に、元親が攻めている地へ侵攻してもよいと承認を与えた事例が複数判明しました。元親は、信長に不信感を抱くようになっていきます。
とくに元親の不信感を増大させた出来事が、阿波をめぐる動きでした。阿波はもともと三好氏支配下の国でしたが、しだいに三好氏の勢力が衰える中、元親が侵攻を進めていました。しかし、元親についてある人物が信長に讒言(嘘の告げ口)したり、毛利攻めのために秀吉が三好氏に肩入れしたことなども情勢に影響したようです。
天正9年、信長は、三好長慶の叔父・三好康長(演:妹尾正文)を阿波に派遣。元親にも康長に協力するよう命じます。阿波を切り取る、つまり攻略して自らのものにするつもりだった元親は、もちろん納得できません。
翌年正月、光秀が利三を通じて、信長の朱印状を元親に届けています。朱印状の内容は“阿波を明け渡すように”というものだったでしょう。これに合わせて届けられた光秀の書状が残されており、そこでは“信長の意向に従うように。光秀は元親をおろそかにはしない”と元親を説得しています。
2月、康長は再び阿波に渡ります。さらに5月7日、信長は3男・信孝を康長の養子とし、四国攻略を命じました。命令の内容は、“讃岐を信孝に、阿波を康長に与える。土佐・伊予については信長が淡路に出馬したときに決める”というものです。元親は土佐の支配さえ認められていませんでした。

こうした信長の方針転換は、信孝の立場を固めようとの意図もあったと指摘されています。今週のドラマは、ちょうどこの時期を描いていると思われます(ただし信長の暗殺未遂事件や長浜城訪問は、史実としては知られていません)。
四国問題に関するこの方針変更は、仲介をしてきた光秀としては、面子をつぶされるものであり、四国攻めは光秀を排除したかたちで進められていました。
舅・光秀の状況を、信澄も心配していたことでしょう。四国をめぐるこの齟齬が、本能寺の変が起こる一因とも指摘されています。
それでも元親は5月21日には、不満をにじませつつ“正月に届いた信長の仰せの通りに城を明け渡すが、一部は認めてほしい”との手紙を出しています。ただしこの手紙が、信長、あるいは光秀の手元に届いたかは不明です。
不穏な雰囲気が高まっています。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。