荒木あらき村重むらしげ(演:トータス松本)が織田方に反旗を翻した天正てんしょう6年(1578)10月から、彼の籠もるありおかじょう(伊丹いたみ城 現在の兵庫県伊丹市に所在)攻めは1年近く続きました。

ところが天正7年9月2日、村重は城をひそかに抜け出し、息子のいる尼崎あまがさきじょう(現在の兵庫県尼崎市に所在)に移ってしまいます。

村重にとっては、毛利もうり氏や大坂おおざか本願寺ほんがんじと直接交渉し、援軍を求めるためだったのかもしれませんが、ともに苦労していた味方を見捨てるかのような行動です。大将を失った有岡城からは、織田方に寝返る者も出てきました。

その後、城に残った村重の家臣たちと織田方との間で交渉が行われ、次のような降伏条件が整いました。村重の妻・だし(演:山谷花純)をはじめ荒木一族および家臣の妻子を人質として有岡城に残すこと、村重を説得して尼崎城などを引き渡すこと、そうすれば荒木方の人質は助けること――などです。

しかし村重自身は己の命が大事だったのか、この条件を受け入れませんでした。

その結果、人質は処刑されることになりました。12月13日、尼崎城外で家臣の妻子122人がはりつけに、そのほか512人が焼き殺されてしまいました。さらに16日、だしたちは京の町中を引き回されたのち、六条河原で処刑されました。

だしは、評判の美人でした。だしは処刑されることになっても、“こうなった以上は村重をうらまない”と言い、取り乱すこともありませんでした。着物を整え、斬首しやすいよう髪を上げ、襟を広げて首をさらし、見事に斬られました。人々は、だしたちの哀れな死は村重のせいだと非難したといいます(太田おおた牛一ぎゅういち著『信長記しんちょうき』)。

一方、村重自身は尼崎城から花隈はなくまじょう(現在の兵庫県神戸市に所在)に移り、年が明けた天正8年3月、安芸あきの毛利氏のもとに逃げ込み、命を長らえました。

有岡城の落城により、ずっと捕われていた小寺こでら官兵衛かんべえ(のちの黒田くろだ孝高よしたか 演:倉悠貴)も帰ってきました。無事に息子の松寿丸しょうじゅまるとの再会を果たしています。松寿丸を助けてくれた亡き竹中たけなかはん兵衛べえ(演:菅田将暉)にも思いをせたでしょうか(コラム#23参照)。

しばらくの後、官兵衛は名字を「小寺」から「黒田」に改めました。じつは官兵衛の本来の名字は「黒田」です。「小寺」という名字は、官兵衛の父の時代に、主の小寺政職まさもとから与えられたものでした。当時、主の名字を名乗ることを許されるのは大変名誉なことで、官兵衛やその父が高く評価されていたことがうかがわれます。

しかし政職は、羽柴はしば秀吉ひでよし(演:池松壮亮)の高圧的なやり方に反発し、天正6年末に毛利方に寝返っていました(コラム#23参照)。そのため官兵衛は、政職を見限って秀吉の直臣となり、名字を「黒田」に戻すことにしたのです。秀吉からは1万石もの知行を与えられました。秀吉は、強力な家臣を新たに得たことになります。

小寺官兵衛(左)と松寿丸

別所長治が切腹 秀吉が自己アピールに活用した「真と偽り」

一方、別所べっしょ長治ながはる(演:下川恭平)の三木みきじょう(現在の兵庫県三木市に所在)はどうなったでしょうか。

三木城をめぐる戦いも長く続いていました。この戦いの経過を知ることのできる史料に『播州ばんしゅう御征伐ごせいばつこと』があります。これは秀吉が、関白になる少し前に、家臣の大村おおむら由己ゆうこに書かせたものです。

三木城には7000〜8000人もの大軍が籠城していました。これほどの大人数を支えるためには大量の兵糧が必要になります。兵糧は、毛利氏や摂津せっつの村重の援助を受けて入手していました。この補給を断つため、秀吉は周辺の別所方の城を次々と落とし、一方でとりでを多数築いて三木城の周囲を厳重に囲みました。

小一郎こいちろう長秀ながひで(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)も兄・秀吉とともに三木城攻めに加わっています。別所軍が、平井山ひらいやまの秀吉の陣に攻めこんできたときには、長秀が、秀吉の前に走り出て果敢に戦いました。

さらに兄弟は、備前びぜん宇喜多うきた直家なおいえ(演:緋田康人)を調略し、天正7年6月に毛利方から寝返らせました(ただし秀吉は、このときも織田おだ信長のぶなが[演:小栗旬]に知らせずに勝手に交渉を進めたため、信長を激怒させました)。

直家は、毛利氏と三木城の中間地域に勢力を持っていました。直家を味方につけたことで、西の毛利からの補給は難しくなりました。そして村重の有岡城が落城したため、東からの補給も絶たれます。三木城はどんどん追い詰められていきました。

冬の色が濃くなるころには、とうとう三木城内の食料は尽き、城内の牛・馬、その餌なども食べつくしました。数千人が餓死し、「三木の干殺ほしごろし」と称されるほどのむごたらしい状況になりました。

兵糧攻めだけでなく、戦いによる攻略も進められています。

天正8年正月には、羽柴軍が三木城から堀一つを隔てた宮ノ上みやのうえとりで鷹尾山たかおやまじょうを確保しました。そして、鷹尾山城には長秀の軍が陣をすえました。これにより別所軍は、唯一三木城を残すのみとなったのです。

別所長治(中央手前)

ついに長治は、自らの命と引き換えに城兵を助けてくれるよう秀吉に申し入れてきます。秀吉は降伏を受け入れ、“最後の宴会”のために酒やさかなを城に差し入れました。そして17日、長治は辞世の歌をみ、弟・友之ともゆきや妻子とともに自害しました。

      今はただみもあらず諸人もろびとの命にかはるわが身と思えば

城に籠もった「諸人の命」に代わって長治が切腹することで、みなが助かるのであれば……、という歌ですね(『播州御征伐之事』)。こうして三木城は降伏しました。

ただし、本当に長治の思いは受け入れられたのでしょうか。

じつは秀吉は三木城落城後、四国の長宗我部ちょうそかべ元親もとちか(演:磯部寛之)に出した手紙に「みな首をはねた」などと記しています。どうも実際には三木城の城兵全員が助命されたわけではなかったようです。

しかしそれでは体裁が悪いと思ったのか、『播州御征伐之事』には、秀吉は約束をたがえず城内の人々をみな助けたと美談として記し、三木城下を“復興”させた秀吉の徳を褒めたたえる文章で締められています。

秀吉は、落城直前に信長の側近たちにも手紙を出し、“もうじき落城する、敵を大勢討ち取った”と、現地の絵まで添えて自らの戦功を宣伝しています。こうした手紙といい、『播州御征伐之事』といい、秀吉は自己アピールにかなり意を用いていたようです。

さて、三木城落城の直前には、政職の御着ごちゃくじょう(現在の兵庫県姫路市に所在)なども落ち、豊臣兄弟は播磨はりま但馬たじまをほぼ制圧しました。

2月、豊臣兄弟は1年以上滞在していた播磨から、ようやく近江おうみ長浜ながはまじょう(現在の滋賀県長浜市に所在)に戻りました。ドラマで長秀が「わしは、変わってはおらぬか」とわざわざちか(演:吉岡里帆)に尋ねていましたが、それほど播磨攻めは厳しく無残な戦いでした。

しかし帰宅もつかの間、3月末には毛利軍が動いたとの知らせに、兄弟は再び出陣します。戦に忙しい日々が続きます。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。