天正7年(1579)6月13日、竹中半兵衛重治(演:菅田将暉)が亡くなりました。
太田牛一著『信長記』には「羽柴筑前守秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)の与力に付けていた竹中半兵衛が播磨の陣で病死した。かわりに信長の御馬廻で半兵衛の弟の竹中重矩を派遣した」と記されています。ここから半兵衛は病死だったこと、また半兵衛は秀吉の家臣ではなく、信長の命によって秀吉の許に配属されていた存在だったとわかります。
また半兵衛の子・重門は、のちに『豊鑑』という秀吉の伝記を書いています。その中には、半兵衛の死に「秀吉は限りなく悲しみ、(『三国志』に出てくる蜀の武将 )劉備が、(軍師 )諸葛孔明を失ったのと同じようだった」と記されています。息子が秀吉の姿を借りて父を褒めたたえる視点ではありますが、豊臣兄弟にとって、半兵衛の死は実際に大きなダメージだったのでしょう。

ところで、亡くなる2か月前の4月9日に半兵衛が記したとされる手紙が、半兵衛の子孫の家に残されています。宛先は書かれていませんが、内容からすると小寺官兵衛孝高(のちの黒田官兵衛孝高 演:倉悠貴)の身内宛でしょうか?
半兵衛はこの手紙に、織田信長(演:小栗旬)が官兵衛のことを大事に思っていること、官兵衛が我が子・松寿丸についてよろしくと丁寧に伝えてきて、それを読んで涙を流したこと、松寿丸のことは後々まで安心してほしいこと、信長がまもなく出陣すること、などを認めています。
心のこもった手紙ですが、官兵衛・松寿丸父子のことを、なぜ半兵衛はそこまで親身になって考えたのでしょうか。少し時代をさかのぼります。
小寺官兵衛は東播磨の有力者・小寺政職の家臣で、姫路城(現在の兵庫県姫路市に所在)を預かっており、天正5年の豊臣兄弟の播磨攻めには早くから協力していました。播磨に入った秀吉が、政職のいる御着城(現在の兵庫県姫路市に所在)ではなく姫路城を選んだのも、秀吉が官兵衛を信頼していたからと推測されます。
秀吉は姫路城に入ると、国内の有力な武将たちに服属の証しとして人質を出すよう求めました。そのため、官兵衛の許からは当時数え年10歳の松寿丸が人質となり、秀吉の本拠・長浜城(現在の滋賀県長浜市に所在)に身柄を預けられました。長浜では、寧々(演:浜辺美波)たちとの交流もあったのかもしれません。

翌天正6年2月、三木城(現在の兵庫県三木市)の別所長治(演:下川恭平)が離反。さらに10月、有岡城 (伊丹城。現在の兵庫県伊丹市に所在)の荒木村重(演:トータス松本)が離反し、官兵衛の主・政職も西の大大名・毛利方に走りました。播磨の秀吉たちは東側の退路を塞がれ、播磨で苦戦が続きます(コラム#22参照)。
そうした中、秀吉は官兵衛に「そなたのことは弟の小一郎と同じように心安く思っている」と信頼していることを訴えています(コラム#21参照)。ちなみに官兵衛は、秀吉よりは9歳ほど、小一郎長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)より6歳ほど年下でした。
村重の有岡城で官兵衛軟禁!? 官兵衛の願いに涙した半兵衛
荒木村重はもともと摂津の3守護の1人・池田勝正の家臣でしたが、急速に勢力を伸ばしていきます。信長からは摂津一国を与えられ、また、村重の長男・村次は明智光秀(演:要潤)の娘と結婚しています。信長に大抜擢された人物で、信長の中国地方攻略を担当していました。ずっと最前線での負担が続き、家臣たち、領民たちも疲弊していました。
それにもかかわらず天正5年、秀吉が中国地方攻略の大将として乗り込んできたのです。第21回放送では、長秀が村重を気遣っていましたが、自分がないがしろにされたと不満に思っていたところに、将軍・足利義昭(演:尾上右近)や毛利方から声がかかったのでしょう(コラム#22参照)。それらが、村重謀反の背景にあると思われます。
信長はこの知らせに驚き、かつての松永久秀(演:竹中直人)の謀反発覚(コラム#20参照)のときと同様、村重を説得しています。信長は自ら(通常なら家臣が代筆します)「我が許に出頭することを待っている」と認めた手紙(下画像)まで送っていますが、村重の心はつなぎ留められませんでした。

荒木村重、村次宛の手紙。「その方の様子は言語道断だ。誠に天下の面目を失うものだ。私の考えは使者の2人に申し聞かせておいた(から、2人から聞くように)。早く私の許に出頭することを待っている(大意)」
小寺政職も同様に、秀吉の強圧的な播磨支配、さらに家臣の官兵衛や姫路城を秀吉に取られた、と感じたことで謀反にいたったと推測されます。
そして官兵衛です。
今回描かれたように、旧知の村重を説得するため有岡城に赴いた官兵衛ですが、そのまま捕えられてしまいました(ただし土牢に幽閉された、というエピソードは後世の創作のようです)。

村重の謀反から少し経った天正6年11月11日付で、秀吉が官兵衛の叔父休夢斎に出した手紙があります。
「竹中半兵衛が『休夢斎たち小寺の家中は信長への忠義を尽くす覚悟である』と信長に報告し、大変喜んだ信長からの手紙が秀吉の許に届いた。その手紙で信長は『官兵衛は村重と大変親しく、今度のことは是非もないが、休夢斎たちが信長に無二の忠義を示すのは、感心である』と記されていた」という内容です。
この手紙から、半兵衛は信長への中国地方攻略の報告を担当していたようです。また、村重謀反が発覚すると、官兵衛がすぐに説得に赴いていたことがわかります。そして信長はこの時点で、有岡城から帰ってこない官兵衛が裏切ったと思ったのでしょう。
半兵衛と官兵衛の子孫が記した家譜には、官兵衛の“裏切り”に怒った信長が、人質の松寿丸を殺すよう半兵衛に命じた、として次のような逸話があります。
半兵衛は信長に「官兵衛は忠義の人なので裏切ってはいません。人質を殺してはいけません。のちに恨みを買います」と諫言しました。しかし信長の憤りは深く、重ねて殺すようにとの命令が出ます。そこで半兵衛は「松寿丸を殺害しました」と偽りを報告し、ひそかに自らの居城・菩提山城(現在の岐阜県不破郡垂井町に所在)に匿まったといいます。半兵衛の気遣いで、松寿丸はかろうじて危機を逃れました。
*なお、このエピソードは『竹中家譜』『黒田家譜』ともほぼ同文で描いているため、両家の子孫が美談として盛り上げる意図があった可能性があります。
ここで本コラム最初にご紹介した、天正7年4月9日の半兵衛の手紙を思い出してください。この手紙は、官兵衛が帰ってこないまま半年以上が過ぎたなかで認められたものです。
はっきりとは書かれていませんが、手紙の流れから推測するに、官兵衛は有岡城で軟禁状態にあるなか、どうにか半兵衛にメッセージを伝えてきたと思われます。半兵衛は、官兵衛の無事を知って心から喜んだとともに、子を思う父の思いに触れ、涙したのでしょう。
半兵衛はずっと、官兵衛の忠義を強く信じていたのです。

親子といえば、長秀と慶(演:吉岡里帆)の間にも娘が誕生し、みんな大喜びでしたね。実際に、長秀には娘が数人いたことが確認されています(この頃に誕生した娘がいたかどうかはわかりません)。
さて、戦の形勢は、備前の宇喜多直家(演:緋田康人)が毛利方を裏切り、織田方についたことで好転しそうな気配です。官兵衛が無事、息子の許に帰ってくるよう祈ります。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。