今週は、松永まつなが久秀ひさひで(演:竹中直人)が、大和やまと信貴山しぎさんじょう(現在の奈良県生駒郡平群町に所在)で爆死してしまいました。竹中さんならではの迫力ある演技でした。今回のコラムでは、改めて久秀の生涯を辿たどってみます。

その前に、前回、能登のと七尾ななおじょう(現在の石川県七尾市に所在)救援から勝手に離脱した羽柴はしば筑前守ちくぜんのかみ秀吉ひでよし(演:池松壮亮)や織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)、上杉うえすぎけんしん(演:工藤潤矢)らのその後の動きを見てみましょう。

天正てんしょう5年(1577)9月23日夜、柴田しばた勝家かついえ(演:山口馬木也)を大将とする織田軍は、上杉軍に敗れ、撤退しました。前回もご紹介した手取川てどりがわの戦いです(コラム#19参照)。この戦いの詳しい状況はわかりませんが、謙信は家臣にあてた書状に「織田軍は思ったより弱い。この分ならば天下(畿内)まで掌握することもたやすい」と意気いき軒高けんこうな様子で記しています。

このまま謙信の勢力が北陸方面から南に伸びてきたら、信長は再び窮地に陥ったかもしれません。しかし謙信は翌年3月に急死。上杉家では後継者争いが勃発し、能登・越中には信長が勢力を伸ばしていくことになります。かつての武田たけだ信玄しんげん(演:髙嶋政伸)の急死に続き、信長には“幸運”なライバル退場でした。

さて、勝手に援軍から離脱した秀吉に、信長は激怒しました。太田おおた牛一ぎゅういち著『信長記しんちょうき』には「羽柴筑前が信長に申し上げもせず帰国したことは、けしからぬことであると信長は御逆鱗おんげきりんなされた」と記されています。

このことで、秀吉に何らかの処罰が下されたかどうかは不明です。ただ、9月初頭には秀吉に中国地方への出陣が命じられていたことがわかっています。さらに、実際に出陣する直前の10月10日には、信貴山城攻めの軍勢の中に秀吉の姿が見えます。

相変わらずハードスケジュールですね。信長の逆鱗に触れた直後であることを考えると、秀吉にはここで手柄を立てなくては、との大きなプレッシャーがあったかもしれません。

そしてこの信貴山城の主が、信長を裏切った松永久秀です。

なぜ、久秀は2度までも信長を裏切ったのか?

久秀というと古くから梟雄きょうゆう、一筋縄ではいかない野心的な武将、というイメージがあります。ドラマではこれまで三好みよしの家臣に襲われたり、第13代将軍足利あしかが義輝よしてる殺害(永禄えいろくの変)や東大寺焼失への関与などを疑われたりしていましたね(第11回)。

久秀の生まれははっきりわかっていません。さまざまな伝承がありますが、もともとはあまり高い身分ではなかったようです。畿内の有力者・三好長慶ながよしに抜擢されて重臣となり、信貴山城を居城としました。

しかし長慶は永禄7年(1564)に死去します。翌年、永禄の変が勃発し義輝が殺害されました。ルイス・フロイス著『日本史』などには、変の首謀者は久秀である、と記されています。しかし近年では、久秀自身はこのとき大和におり、直接関与していないのでは?と推測されています。ドラマでも冤罪えんざいを主張していましたね。

その後、久秀は長慶の後継者・三好義継よしつぐや、三好三人衆(三好長逸ながやす[演:中野英樹]・三好宗渭そうい[演:奥田洋平]・石成いわなり友通ともみち[演:阿部亮平])とたもとを分かちました。

三好三人衆。左から、三好宗渭、三好長逸、石成友通(第11回より)

やがて義継と三好三人衆が対立するようになると、義継は久秀を頼ってきます。そして永禄10年10月11日の深夜、久秀は東大寺の三好三人衆の陣を攻め、その戦いのなかで大仏殿に火が付きました。興福寺こうふくじの僧の日記には、「戦いで発生した火の粉が穀物倉庫から、法華堂ほっけどうに移り、さらに大仏殿の廻廊かいろうに延焼していき、丑刻うしのこく(午前2時前後)には大仏殿が焼失してしまった。大仏も溶けて湯のようになってしまわれた(頭部が失われたようです)。言語道断のあさましいことである」(現代語要約)と嘆き記されています。

この記述通りであれば、大仏殿の焼失は意図的なものではなく、戦火による延焼だったようですが、後世には久秀の大悪事の1つとされました。

久秀と信長、足利義昭よしあき(演:尾上右近)とは、この少し前の永禄9年ごろから交流があり、久秀は義昭の上洛にも協力しました。義昭が首尾よく15代将軍に就任すると、大和一国の支配を任され、大和の反対勢力を抑えました。以後、信長の心強い味方として活躍しました。

ところが、やがて将軍義昭が、大和の有力者で久秀と対立する筒井つつい順慶じゅんけい(演:永沼伊久也)とよしみを通じたことで、関係がこじれていきます。

元亀げんき3年(1572)、ついに久秀は信長から離反します。しかし翌年には降伏し、このときの居城・多聞山たもんやまじょう(現在の奈良県奈良市に所在)を明け渡しました。そして3年後の天正3年には、大和の一部を再び与えられ、信貴山城に入りました。

一方、多聞山城は破壊され、その一部は京の二条新御所や安土あづちじょう(現在の滋賀県近江八幡市に所在)に移築されました。

久秀とともに消え去った? 幻の名物「平蜘蛛」

さて、今回描かれたように天正5年8月17日、久秀は2度目の謀反むほんに至ります。七尾城救援のために大軍が出陣した織田家の隙を狙ったのでしょうか。

なぜ久秀は、再び信長を裏切ったのでしょう? その理由として、順慶重用ちょうようへの反発に加え、前述の多聞山城取り壊しに対する不満があったのではないかと考えられています。さらにそこに、安芸あき毛利もうり氏のもとで打倒信長と将軍復権を目論む、義昭からの働きかけがあったようです。

信長は驚き、「何があったのか。事情を言えば、望みをかなえよう」と、やや優しく翻意を促します。しかし久秀は説得に応じず、9月末には織田軍が討伐に押し寄せることになりました。そして10月10日、信長の嫡男・織田信忠のぶただ(演:小関裕太)を大将とする織田軍により、信貴山城は包囲され落城、久秀は自害しました。数え年で70歳でした(ちなみに順慶は29歳です)。

このとき、久秀とともに火にかかったとされるのが、有名な茶釜・ひら蜘蛛ぐもです。

久秀といえば、平蜘蛛とともに爆死した武将というイメージを持たれている方もいらっしゃるかもしれません。久秀は茶の湯に熱心で、名物の茶器も多数持っていたことで知られています。とりわけ平蜘蛛は、信長から譲ってほしいと頼まれても断ったというほど、大事にしていたようです。

久秀の死と平蜘蛛にまつわる伝説は多数あります。落城の折に平蜘蛛が破損したため、織田の家臣・多羅尾たらお光信みつのぶが破片を拾い集め、それを継いで復元し、のちに光信の父が茶会で使用したとの逸話、あるいは、城にあった平蜘蛛は偽物だったとの説もあります(今回のドラマでも、偽物の平蜘蛛が兄弟に託されていました)。

大蘇芳年『芳年武者无類 弾正忠松永久秀』 幕末から明治前期に活躍した浮世絵師・
大蘇(月岡)芳年の作。織田軍に包囲された久秀が、自害直前に平蜘蛛を柱に投げつけ、打
ち割ったという逸話による。 国立国会図書館デジタルコレクションより転載

また江戸時代の軍記や浮世絵では、平蜘蛛は久秀が自害する折に火薬で割れた、死の前に打ち割った、などの光景が描かれています。その後、だんだん話が誇張され、ついには久秀は平蜘蛛とともに爆死したという逸話まで生まれたわけです。

さまざまな伝説に彩られた人物・松永久秀は、こうして亡くなりました。ドラマでは、信貴山城での働きが認められ(口実として?) 、秀吉が信長からゆるされていましたね。信貴山城攻めを終えた豊臣兄弟は、すぐに中国地方攻略のため播磨はりまに出陣していきます。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。