今週は、豊臣兄弟や織田信長(演:小栗旬)の次世代の子どもたちが、続々と登場しましたね。
小一郎長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)は、新たな家族を迎えていました。妻・慶(演:吉岡里帆)と以前の夫・堀池頼広の間の子、与一郎(演:高木波瑠)です。

これまで長秀の妻子についての研究は、ほとんど進んでいませんでした。そうした中、この「与一郎(あるいは小一郎という説も)」は、ドラマの時代考証を務める黒田基樹氏により、長秀の嫡男では?と推測されている人物の名前です。
じつは、ドラマ第16回で闘死した信長の家臣・森可成(演:水橋研二) の子孫が江戸時代に記した記録に、長秀の子に関する記述があります。森家に嫁入りした女性が、以前は長秀の子・与一郎の妻だったというのです。またもうひとつ、長秀の家臣・藤堂高虎(演:佳久創)の子孫の記録には、長秀に男の子がいたことが記されています。
これらから最近、長秀に与一郎という嫡男がいた可能性が指摘されているのです。
現在知られている限りでは、豊臣兄弟やその関係者が生きていた時代の史料には与一郎は登場しません。与一郎は本当にいたのか、母は誰なのか、どのような人物だったのかは、謎です。
江戸時代の記録が、他の人物と混同して記しているのでは、という指摘もあります。ただ、ドラマではこの新説を踏まえて、長秀が妻の子を養子にしたというエピソードを加えたと思われます。今後、さらに新たな事実がわかってくるのでは、と楽しみです。

またドラマでは、慶の以前の夫・堀池頼広は、かつての敵・斎藤氏の家臣とされていました。信長による美濃攻めの頃、美濃の揖斐城(現在の岐阜県揖斐郡揖斐川町に所在)には、実際に「堀池」を名乗る武士がいました。例えば堀池元盛という人物は、美濃三人衆のひとり・稲葉良通(演:嶋尾康史)と連名で命令書を出しており、家臣の中で一定の地位にあったことがうかがわれます。
この堀池氏と長秀、あるいはその妻との関係は今のところ知られていませんが、それはさておき、ラスト近くで慶と与一郎とともに池を眺める長秀はうれしそうでしたね。
秀吉は、なぜ信長の命に背いて戦前に帰陣したのか?
秀吉(演:池松壮亮)にも新たな家族が加わっていました。前田利家(演:大東駿介)とまつ(演:菅井友香)の娘の豪です。娘を養女として委ねるほど、利家と秀吉は親しい間柄になっていたことがわかります。
豪は、天正2年(1574)生まれです。江戸時代に記された『川角太閤記』には数え年2つで養女になった、と書かれています。この記述に基づいて、ドラマでは天正3年の出来事に設定したのでしょう(養女となったのはもう少し後とする記録もあります) 。
豪は寧々(演:浜辺美波)の手許で育てられ、秀吉も大変にかわいがりました。太閤となった後に、秀吉が寧々に送った手紙では、豪は自分の「秘蔵の子」で「天下一の官につけたい」と記しています。

さてこの頃の秀吉は、安土城(現在の滋賀県近江八幡市に所在)築城や西の毛利氏との交渉、播磨攻め、越前の一向一揆攻めなどなど、あちらこちら奔走しています。
そして天正5年8月、秀吉は能登の七尾城(現在の石川県七尾市に所在)の救援を命じられました。ここは能登守護の畠山氏の居城でしたが、天正4年に越後の上杉謙信(演:工藤潤矢)が攻め込んできたのです。
時は遡りますが、かつて信長が甲斐の武田信玄(演:髙嶋政伸)や浅井・朝倉氏などと対立していた元亀年間(1570〜73年)には、謙信は信長と同盟を結んでいました。そして、信長が長篠の合戦で武田勝頼を破った天正3年、信長はこの機に乗じて武田領国信濃に攻め込んでほしいと謙信に依頼します。ところが謙信はこれに応じず、越中さらに加賀に攻め込みました。隣国の武田が弱っていて、勢力拡大の好機だと思ったのでしょうか。
この謙信の行動に、信長は約束違反だと怒りました。さらに翌年、謙信は室町幕府将軍・足利義昭(演:尾上右近)と手を結びます。義昭はこの頃、毛利氏の許で打倒信長の策を巡らせていました。
かくして両者は完全に対立するようになります。将軍の命令という大義名分を得た謙信は、越中から能登に攻め進み、天正4年、5年と続けて七尾城を攻めます。窮地に陥った七尾城は、信長に助けを求めました。
これを受けて信長は、柴田勝家(演:山口馬木也)を総大将に、秀吉や利家、丹羽長秀(演:池田鉄洋)、滝川一益(演:猪塚健太)、佐々成政(演:白洲迅)らの大軍を派遣します。信長も朝倉氏滅亡後、越前の一向一揆を平定し、加賀・能登・越中に目を向けている状況でした。

織田軍は天正5年8月8日に出陣しますが、9月15日に七尾城は落城しました。ドラマで秀吉が懸念していた通り、この落城を織田軍は知らずに進んでいたようです。そして秀吉は軍から離脱してしまいます。その後、織田軍は上杉軍と手取川付近で対峙します。のちに言う「手取川の戦い」です。
秀吉が離脱した本当の理由は不明です。
江戸時代の軍記には、「秀吉と勝家は仲が悪く、威勢を争った」(『総見記』 )などと記されています。「秀吉は水島(現在の石川県白山市)で七尾城の落城を知り、行っても意味がないので帰陣した」とするものもあります(『越登賀三州志』 )。ただ実際は、秀吉は9月初頭には中国地方への出陣を命じられているので、七尾城落城前の8月中にはすでに離脱していたのではないかと考えられます。
どちらにしても、大将の勝家は秀吉の撤退を受け入れなかったことになります。2人はよほど反りが合わなかったのでしょうか(信長死後に両者が対立したことから、遡るかたちで不仲のイメージが作られたのかもしれませんが)。
勝手な戦線離脱は命令違反です。秀吉は、はたして大丈夫なのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。