豊臣兄弟の新しい任務は、中国地方攻略です。中国地方には毛利氏という大大名がいます。じつは、兄弟と毛利氏は以前から関係がありました。少し時代を巻き戻してみましょう。
織田信長(演:小栗旬)は、足利義昭(演:尾上右近)を室町幕府15代将軍に就けたのち、永禄12年(1569)から毛利氏の当主・元就と連絡を取っていました。これまでも当コラムでは、信長が元就に送った手紙をコラム#14、コラム#15でご紹介しましたが、それにはこうした背景があったのです。
翌元亀元年(1570)、羽柴筑前守秀吉(演:池松壮亮)は、毛利氏との間をつなぐ織田側の担当者を命じられました。取次という役割です。元亀2年、元就が死去すると、孫の輝元(演:濱正悟)が跡を継ぎました。当初は信長との関係は円満でした。

天正元年(元亀4年)、将軍・義昭は京を追放された後、毛利氏を頼ります。すると輝元が“義昭が京に戻れるようにしてほしい”と信長に頼んできました。この交渉に、織田方からは秀吉らが、毛利方からは安国寺恵瓊(演:立川談春)が赴きます。恵瓊は、毛利氏の外交担当の重臣です。
しかし交渉の途中で、秀吉は「義昭さまは行方知れずだと信長に申し上げる。どこにでも行かれよ」と言い捨てて座を立ったため、義昭の帰洛は不調に終わりました。恵瓊が交渉の顛末を国許に報告した手紙が残されています(『吉川家文書』 )。その報告書の次の一節は、ご覧になったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。
信長の時代は5年か3年はもつでしょう。来年あたりには公家などになるかと思われます。そうなった後に、信長は「高ころびにあおのけに(調子の良いところから仰向けに)」転ぶだろうと見受けました。藤吉郎(秀吉)は「さりとてはの者 *解釈は後述」です。(現代語要約)
信長の未来を予言するかのような内容ですね。

信長はこの時点では正式の官位はありませんでしたが、まさに翌天正2年(1574)に従五位下に叙され、公家の仲間入りをしています。畿内支配の大義名分だった義昭を失ったため、信長自身が公的な立場を得る必要があるだろうと、予測していたのでしょうか。
その後信長は、天正3年には従三位権大納言に、天正4年に内大臣となり、義昭の官位を一気に追い抜きます。そして天正5年11月には、朝廷で最高位の官職の一つ・右大臣まで昇りました(ただし信長自身はあまり官位に関心はなかったようです)。
一方、交渉で強い態度に出た秀吉に対しては、「さりとてはの者」とあります。「さりとては」は、言葉通りなら「そうはいっても」と言う意味ですが、17世紀初頭にイエズス会宣教師がまとめた『日葡辞書』には強調を示す表現と記載されています。
従来は、恵瓊が秀吉を「なかなかどうして、ただ者ではない人物」というような高評価を与えたと解釈されてきました。私は、高評価なのかそうでもないのか、悩ましいように思います。あえて言うなら、交渉を壊した相手に対する表現ですので、「(信長は高ころびするであろうが、)だからといって秀吉もさほどの者ではあるまい」という感じでしょうか。
なお、義昭を受け入れなかった秀吉の判断を、失敗だったと評価する研究者もいます。
秀吉から弟同然に信頼された“名軍師”黒田官兵衛
織田と毛利との関係に話を戻しましょう。
信長の勢力が西へ拡大していくと、毛利氏との間の地域の支配をめぐって、両者の雲行きが怪しくなります。輝元は、天正4年にはそれまで紀伊に滞在していた義昭をついに領国内に受け入れました。これにより、信長と毛利氏ははっきり敵対することになります。
義昭は鞆(広島県福山市)に滞在し、大坂本願寺や越後の上杉謙信(演:工藤潤矢)らに、打倒信長を積極的に働きかけました。前回のドラマの松永久秀(演:竹中直人)の謀反も、義昭の工作の影響があったと考えられています(コラム#20参照)。

こうした経緯から、中国地方攻略には毛利氏担当だった秀吉が派遣されました。
天正5年10月末、秀吉は、小寺官兵衛尉孝高(のちの黒田官兵衛尉孝高。以下、よく知られた官兵衛と表記します 演:倉悠貴)の姫路城(現在の兵庫県姫路市に所在)に入ります。
官兵衛は、2014年の大河ドラマ「軍師官兵衛」の主人公で、竹中半兵衛(演:菅田将暉)と並び、後世“名軍師”のイメージの強い人物ですね。東播磨の有力者・小寺政職の家臣ですが、秀吉に好意的な人物でした。
このとき秀吉は、信長に「播磨の国中を、夜を日に継いで駆け回っており、皆から人質を取って11月10日には片が付きます」と報告しています(太田牛一著『信長記』 )。別所長治(演:下川恭平)ら播磨の人々の服属は、まずは順調に進んでいたようです。

この報告に、信長は「よくやった、早々に帰国するように」と命じました。しかし秀吉はそれだけでは功績が足りないと考えたのか、北隣の但馬に攻め込みました。この機会に、北陸から勝手に退却した失点を挽回しようとしたのかもしれません(コラム#19参照)。
但馬攻めの大将は、弟・小一郎長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)です。但馬は、室町時代に有力な存在だった山名氏の領国ですが、すでに山名氏は衰退し、国内の武将たちが織田派と毛利派に分かれて対立していました。
長秀は、但馬南部の岩津城(現在の兵庫県朝来市に所在)や、太田垣輝延(演:中野英雄)の守る竹田城(現在の兵庫県朝来市に所在)を落としました。竹田城は現在「天空の城」として、雲海の中に浮かぶ美しい姿が有名ですね。ドラマでも、朝靄が戦のキーになっていました。
ドラマでは、長秀は竹田城の“ほぼ無血開城”を成し遂げますが、実際にはどのように攻略したのかは、不明です。なお、後述する秀吉の上月城(現在の兵庫県佐用郡佐用町に所在)攻めでは、城の水の供給路を断ったとの伝承がありますので、今回はこれを参照したのかもしれません。水を断たれたとすれば、城兵は大変に苦しかったことでしょう。

竹田城落城後、長秀はその城代となり、付近の支配に携わるようになります。兄の片腕として、長秀の役割もどんどん大きくなっています。
翌年7月に、秀吉が官兵衛に送った手紙があります。その中で秀吉は「その方の儀は我ら弟の小一郎め同前に心安く存じ候(そなたのことは、私の弟の小一郎同然に心安く思っている)」と記しています。官兵衛に対する信頼を訴えているわけですが、同時に、秀吉が弟・長秀を深く信頼していることも伝わってきます。
一方、秀吉自身は、西播磨の上月城、福原城(現在の兵庫県佐用郡佐用町に所在)を攻め落としました。兄弟の戦果に、信長は大変喜びました。
とはいえ、その後も兄弟の中国地方での戦いは長く続きます。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。