元亀げんき元年(1570)4月25日、織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)軍に、浅井あざいながまさ(演:中島歩)が裏切ったとの知らせが飛び込んできました。信長は、金ヶ崎かねがさきじょう(現在の福井県敦賀市に所在)からさらに進んで、朝倉あさくら義景よしかげ(演:鶴見辰吾)の支配する越前えちぜん嶺北れいほくに攻め入ろうとしていたところでした。

当初、信長はこの情報をデマだと考え、「長政は縁者である上に、北近江きたおうみを与えているのに、不満はないだろう」と語ったといいます。また、この戦いから3か月後の7月、中国地方の大大名・毛利もうり元就もとなりに送った手紙で、「長政は近ごろとくに自分に仕えて、親しくしていたのに思いがけない事態で是非もないことだ」と嘆いています。信長はそれほど長政を信じていたのです。

ただしこの手紙には「長政が裏切ったと帰洛の途中に知らせがあった」とも書かれています。これが事実だとすれば、何らかの危険を感じて退却したけれども、それが長政の裏切りによるものとは、当初わからなかったのかもしれません(「義弟の裏切りにより退却した」と信長が書きたくなかったとも考えられますが)。

「金ヶ崎の退き口」の名で知られるこの出来事の2年半前にあたる永禄えいろく10年末(1567)、小谷おだにじょう(現在の滋賀県長浜市に所在)の長政のもとには、信長の妹・いち(演:宮﨑あおい)が嫁いでいます。市のはっきりした年齢は不明ですが、信長とは10歳以上年下(養妹という説も)で、結婚時に20歳くらいだったようです。そして長政が裏切った元亀元年の時点では、ふたりの間に長女・茶々ちゃちゃ(のちの淀殿よどどの)が誕生していました。

義理の弟となったにもかかわらず、なぜ長政は朝倉氏に味方して、信長を裏切ることになったのでしょうか。改めて、当時の政治状況を整理してみましょう。

長政は浅井久政ひさまさ(演:榎木孝明)の嫡男で、年齢は信長より11歳年下、市より少し年上でした。浅井氏は北近江・小谷城を本拠としています。もともとは北近江の守護・京極きょうごく氏の家臣でしたが、この時期、京極氏は弱体化していました。

一方、南近江の守護・六角ろっかく義賢よしかた(法名:承禎じょうてい)は、大きな勢力を持っていました。長政は、15歳で成人すると義賢から「賢」の一字をもらって賢政かたまさと名乗り、六角氏の重臣の娘と結婚します。こうした様子から、この時点では、長政は六角氏に従っていたことがわかります。

ところが長政はまもなくこの妻と離婚します。さらにしばらく後には、賢政の名を長政と改めました。あるじである六角氏の重臣との縁や、主からもらった「賢」を捨てるという非礼な行為は、六角氏との関係断絶の意思を示す行動です。

以後浅井氏と六角氏との抗争が続きました。六角氏は美濃みの斎藤さいとう義龍よしたつ(演:DAIGO)と手を結び、浅井氏の勢力圏に対し南・東両方面から圧力をかけます。そこで長政は、北方の越前・朝倉義景との関係を深めたのです。

長政には、市との結婚以前に万福丸という男の子がいました。市が嫁いだ時には数え年4歳でしたが、やがて義景の本拠・一乗谷いちじょうだに(現在の福井県福井市)に人質として赴きました。

一方、東の美濃では信長の侵攻が進み、永禄10年には斎藤龍興たつおき(演:濱田龍臣)が美濃から退去しました。そうした中で、信長は、足利あしかが義昭よしあき(演:尾上右近)を将軍とするために上洛するべく、美濃と京の間に当たる北近江の浅井氏と同盟を結ぼうとしたと考えられます(コラム#10参照)。浅井側としても、六角氏と対抗するために、東方で台頭してきた信長と友好関係を結ぶことは有意義でした。

こうした政治状況の中で、市と長政の結婚がり行われたのです。

秀吉ら3武将が「しんがり」を務め、危機を脱した信長

長政も、信長もそうですが、この時期の武将たちは周囲の勢力との関係に常に気を使い、自らを守るために努力しています。大きな勢力同士の境目に位置していた浅井氏は、この頃、義景からも信長からも“家臣”に近い存在だと思われていたようです。

ただ、信長と義景の関係が良好なうちは良かったのですが、今回ドラマでも描かれたように、元亀元年の信長の若狭わかさ出陣では両者が衝突しそうな状況になります。そして、板挟みになった長政はついに朝倉氏を選びました。

長政が朝倉氏を選んだ理由はわかりません。新興で周囲に敵の多い信長よりも、義景の方が勝ると思ったのでしょうか。信長の浅井に対する扱いが軽く、やがて家臣の一人に組み込まれてしまうのでは、と不安を感じたのでしょうか。心中では、朝倉氏に人質として行っている幼い万福丸のことも心配だったかもしれません。なお、かつては「朝倉氏と浅井氏は古くから関係があり、その義理から」とも考えられていましたが、実際は少し前には両者が敵対することもありました。

とはいえ長政の選択に、織田・浅井の間をつないでいた市のショックは察するに余りあります。

長政が敵に回ると、背後の京や岐阜への道が塞がれ、信長軍は補給や連絡はもちろん、退路も危うくなります。そうした危険な状況が判明すると、信長は「是非に及ばず」と、ただちに退却を決めました(太田おおた牛一ぎゅういち著『信長記しんちょうき』)。

この時、秀吉が軍の最後尾を守る「しんがり」に名乗りをあげました。江戸時代中期の『絵本えほん太閤記たいこうき』など太閤物では、この退却戦のなか、策略を巡らせて朝倉軍を足止めするという、とう吉郎きちろう秀吉ひでよし(演:池松壮亮)の活躍が見せ場のひとつになっています。

信長軍の撤退直後、一色いっしき藤長ふじなが(将軍義昭の家臣で、このとき所領の丹後たんごで朝倉攻めに加わる準備をしていました)が、信長の家臣に状況を説明している手紙があります。そこには、自分は4月29日に出陣の予定だったが、前日に丹羽にわ長秀ながひで(演:池田鉄洋)から知らせがあって急にそれが中止されたことや、金ヶ崎城に秀吉のほか、明智あけち光秀みつひで(演:要潤)、池田いけだ勝正かつまさが残し置かれたことが書かれています。

思いがけない事態によって信長軍が撤退せざるを得なくなったこと、また、秀吉だけではなく3人で「しんがり」を務めたことがわかります(3人で務めたとしても、もちろんお手柄には違いありません)。

秀吉たちは、まずは信長が若狭の安全な城に退却できるまで、前線を支えました(ドラマではその時間が「二刻ふたとき(約4時間) 」と見積もったのでしょう)。そして信長は、5日後の4月30日に京に帰り着きました。この時、信長につき従っていたのはわずか10人ほど、信長軍は2000人以上も損害を出したといいます。

秀吉のほか、小一郎長秀(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)らも京に帰り着き、ほっと一息でしたね。ドラマでは、信長が医師たちを控えさせるなど、万端の準備でふたりを迎えていました。

さて、これから信長は、裏切り者の義弟・長政にどのように対処するのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。