天正てんしょう12(1584)年3月、織田おだ信雄のぶかつ(演:山脇辰哉)・徳川とくがわ家康いえやす(演:松下洸平)の連合軍が、羽柴はしばちく前守ぜんのかみ秀吉ひでよし(のちの豊臣とよとみの秀吉 演:池松壮亮)に敵対する兵を起こしました。

羽柴美濃守みののかみ長秀ながひで(のちの豊臣秀長ひでなが 演:仲野太賀)は、3月22日に兄・秀吉の養子・おつぎ秀勝ひでかつ(演:柊木陽太)や滝川たきがわ一益かずます(演:猪塚健太)とともに、信雄の領国・伊勢いせに攻め入りました。そして4月上旬には、伊勢方面の争いを一段落させ、秀吉が陣を置く尾張おわりに駆け付けました。美濃守長秀は7000人と秀吉軍の中で最大の軍勢を率いています。

それに先立つ3月10日、秀吉は尾張方面に向けて出陣しました。尾張の隣国である美濃みの池田いけだ恒興つねおき(演:堀井新太)と、もり長可ながよし(森可成よしなり[演:水橋研二]の子で森らん[演:市川團子]の兄)は、秀吉に味方し、尾張の犬山城いぬやまじょう(現在の愛知県犬山市に所在)を攻めます。

一方、信雄に味方した家康軍は、恒興・長可軍を撃退し、3月17日に小牧山城こまきやまじょう(現在の愛知県小牧市に所在)に入りました。対する秀吉は楽田城がくでんじょう(現在の愛知県犬山市に所在)に陣を構え、たいします。それからしばらくは両軍とも城の防備を固め、戦は膠着こうちゃく状態に陥りました。

4月6日、秀吉は状況を打破するため、おい三好みよし信吉のぶよし(のちの豊臣秀次ひでつぐ 演:山田涼介)を大将として、恒興・長可ら2万人の別動隊を岡崎方面に出陣させました。

信吉は秀吉の姉・とも(演:宮澤エマ)の子、かつての万丸よろずまるです。宮部みやべ継潤けいじゅん(演:ドンペイ)の養子になり(コラム#16参照)、元服後は宮部次兵衛尉じびょうえのじょう吉継よしつぐと名乗っていました。そして本能寺の変後に、阿波あわの有力者・三好康長やすながの養子になり、孫七郎まごしちろう信吉と名乗りを改めます。またこの頃に恒興の娘と結婚しました。

信吉の2度にわたる養子入りも結婚も、秀吉の政治的な都合に振り回されている状況です。とはいえ、秀吉は今回の戦で甥を大将に引き立て、手柄を立てさせようとしたのでしょう。この天正12年時には17歳の若武者です。

9日、別動隊の先陣は尾張岩崎城いわさきじょう(現在の愛知県日進市に所在)を落としました。三河みかわへの入り口にある城です。しかし別動隊は長く陣形が伸びており、信吉の軍は白山林はくさんばやし(現在の愛知県名古屋市)で家康軍に背後から襲われました。家康軍は、さらにその前方の堀秀政ほりひでまさ隊も敗走させます。

先陣の恒興、長可らはこの知らせに慌てて引き返し、長久手(現在の愛知県長久手市)で戦いとなります。この戦いは家康方の大勝となり、恒興と長可は討死しました。ただし、この長久手での大勝利はあくまで局地戦にとどまりました。その後、信雄・家康軍が小牧山城から進むことはありませんでした。

一方、美濃守長秀は、5月上旬より美濃・尾張の国境の竹ヶ鼻城たけがはなじょう(現在の岐阜県羽島市に所在)を包囲し、水攻めの末6月に落城させる活躍を見せます。

美濃守長秀は「秀長」に、三好信吉は「秀次」に改名!

戦は、秀吉と家康が直接に対峙した尾張周辺だけで起こったのではありません。ドラマでも描かれていたように、両軍とも各地の勢力に味方になるよう働きかけ、外交戦が繰り広げられました。

信雄・家康側は、越中えっちゅう佐々さっさ成政なりまさ(演:白洲迅)、関東の北条ほうじょう氏政うじまさ(演:谷原章介)ら、長宗我部ちょうそかべ元親もとちか(演:磯部寛之)、紀伊きい雑賀さいか根来衆ねごろしゅうなどと手を結びます。

北条氏政

対する秀吉は、中国地方の毛利もうり輝元てるもと(演:濱正悟)ら、越後上杉うえすぎ氏、関東の佐竹さたけ氏などに働きかけています。お次秀勝と輝元の養女との縁談も調ととのいました。

このように関東から四国まで、広い範囲で両派に分かれて戦いが発生していたのです。

そしてドラマでは、美濃守長秀が改名しましたね。ついに「秀長」の登場です(以降、本コラムでも秀長と記します)。秀長は、この天正12年の6月から9月の間に改名したようです。

もとの名前(長秀)の順番をひっくり返しただけにみえますが、もう織田家臣ではなく兄・秀吉の家臣であるとの意思表明なのでしょう、秀吉の「秀」を先に持ってきています。また甥の信吉も、同年7月以降10月以前に「羽柴秀次」と名前を改めました。2人の改名の直接のきっかけはわかっていませんが、羽柴家が織田の家臣から脱却しつつあることを反映しています。

なお、丹羽にわながひで(演:池田鉄洋)は佐々成政に対応するため北陸に赴き、翌天正13年4月に病死しました。滝川一益は、同じ天正13年の9月に丹羽長秀の領国越前で亡くなっています。

さて7月に体調を崩した秀吉は、9月には信雄・家康側と和睦の交渉を進めますが、まとまりませんでした。しかし、全国に及ぶ戦乱が長期化することは、好ましくないと思ったのでしょう。秀吉は10月、それまでの美濃・尾張方面の陣から転じて、信雄の領国伊勢に出陣。これに屈した信雄の「懇望」によって、11月15日和議が調いました。

「信雄がわずかな供を連れたのみで秀吉の陣を訪れ和睦を願ったので、秀吉は涙を流して和睦に同意した」と、秀吉は前田まえだ利家としいえ(演:大東駿介)に伝えています。大将を失った家康もやむを得ず和睦し、三河に帰国しました。

“組みしやすい”大将・信雄に圧力をかけることで、家康の攻め手をぐ――そんな秀吉の作戦が功を奏したようですね。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。