賤ヶ岳の戦い直後の天正11年(1583)5月21日、石川数正(演:迫田孝也)が主君・徳川家康(演:松下洸平)の使者として、坂本城(現在の滋賀県大津市に所在)を訪れました。戦の勝利を祝い、羽柴筑前守秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)に大名物の茶入・*初花を贈ったのです。
*「初花」は現在、重要文化財に指定 https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/198943 (ステラnetを離れます)

この対面、ドラマでは建設中の大坂城(現在の大阪府大阪市に所在)で行われていましたね。
秀吉といえば大坂のイメージがありますが、じつはこの地は、清須会議の決定で4人の宿老の一人・池田恒興(演:堀井新太)の領地になっていました。しかしその後、賤ヶ岳の戦いを経て、岐阜城主の織田信孝(演:結木滉星)が亡くなると、恒興は美濃に移ります。その後、五畿内の要所である大坂を手に入れた秀吉は、この地に大規模な城の造営を始めました。
天正11年10月、毛利輝元(演:濱正悟)が従弟たちを、建設中の大坂城にいた秀吉の許に遣わしたときの記録が、歴史研究者のグループ「上坂記を読む会」の方々により2024年に紹介されました。
記録によると、このとき輝元の従弟たちは城の大門から入り、奏者所という建物から渡り廊下で中庭を越えた先の座敷で秀吉と対面した、と記されています。「仮屋」と注記はされていますが、この段階ですでにこうした建物が設えられていたようです。従弟たちは豪勢なご馳走や謡でもてなされました。
ドラマでの数正の来訪時期も、ちょうどこのころに設定しているのではないかと考えられます。秀吉は数正を城のあちこちに案内し、自分の力を見せつけていましたね。
では、家康はこの頃何をしていたのでしょうか。
本能寺の変が起きたとき、家康は堺にいましたが、大急ぎで本拠地である駿河に戻りました。その後、家康は織田家中の争いには直接かかわらず、滝川一益(演:猪塚健太)が去ったのちの甲斐・信濃方面の掌握に力を入れていました。

これは秀吉以下、織田の宿老たちの了承も得た行動でした。やがて家康は、関東の大大名・北条氏政(演:谷原章介)との和睦を結びます。しかしこれによって、北条氏と敵対する北関東の諸勢力との間に摩擦が生じることになりました。
一方、秀吉は、天正11年後半になると東国にも目を向け始め、家康に「関東惣無事」(関東の紛争停止)を早く実現するよう求めました。家康は、この秀吉からの書状を氏政に伝えています。織田家中の争いに勝利しつつある秀吉が、家康への干渉を強めていくことに警戒心が高まっていたのでしょう。
家康と織田信雄が対・秀吉の連合軍を結成!

ドラマでは、秀吉と弟の美濃守長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)が、家康および数正と千利休(千宗易 演:吉岡秀隆)の茶席で対面し、天下一統への助力を願う場面がありました(この対面はドラマオリジナルの場面と思われます)。そして両者の懸け橋として家康の子を養子に迎えたいと申し出ていましたね。
養子とは言いますが、実質的には人質です。長秀は話し合いの中で、すでに羽柴家に迎えた子として、前田利家(演:大東駿介)の子・豪姫(コラム#19参照)と、もう一人、仙丸という名前を挙げています。
仙丸(千丸とも)は丹羽長秀(演:池田鉄洋)の3男で、天正10年10月ごろに、数えの4歳で美濃守長秀の養子になりました。ちょうど清須会議で宿老4人の合議制が定まったのち、秀吉が、宿老の柴田勝家(演:山口馬木也)らと対立しつつある時期のことです(コラム#30参照)。

秀吉としては、宿老の一人である丹羽長秀との関係を深め、味方に引き入れようとの思惑があって養子に迎えたのでしょう。なお同時期、兄弟の姉・とも(演:宮澤エマ)の子・万丸(のちの豊臣秀次[演:山田涼介])は、池田恒興の娘と結婚しています。
豊臣兄弟はこのように養子縁組や婚姻というかたちでも、勢力の拡大を進めていました。
ところで、織田信長(演:小栗旬)の次男・信雄(演:山脇辰哉)は、一度は秀吉に担がれて織田家の当主となりました(コラム#31参照)。しかし柴田勝家が滅亡すると秀吉の権力はどんどん増していき、信雄の補佐としてではなく、秀吉自身が権力者として天下を差配する動きを見せるようになります。
信雄は尾張に加えて伊勢・伊賀を与えられたものの、安土城を追われ、ただの一大名の扱いにされてしまいます。秀吉にとって“手駒”としての利用価値が薄れたのでしょう。信雄はもちろん納得しません。秀吉に対抗するため、家康を頼るようになっていきます。

天正12年3月6日、信雄は自らの重臣・津川雄光(前名は義冬 演:早瀬栄之丞)らを殺害しました。彼らは親・秀吉派で秀吉との仲介を務めていた人々です。そして翌日には、長宗我部元親(演:磯部寛之)の弟に「秀吉が天下の政をほしいままにしており、どうしようもない。そこで秀吉に心をあわせる家臣を成敗した。自分は近く上洛するので味方してほしい」と伝えています。
同日、家康は三河岡崎城(現在の愛知県岡崎市に所在)を出発し、尾張清須城(現在の愛知県清須市に所在)の信雄と合流しました。対する秀吉も津川らを殺害されたことで大いに立腹し、10日に尾張に向けて出陣しました。
信雄・家康連合軍と秀吉・秀長兄弟との戦いが始まります。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。