天正てんしょう10年(1582)12月、羽柴はしば秀吉ひでよし(のちの豊臣とよとみの秀吉 演:池松壮亮)は、しば勝家かついえ(演:山口馬木也)のおい・柴田勝豊かつとよの守る近江おうみ長浜城ながはまじょう(現在の滋賀県長浜市に所在)に向かって出陣しました。近江への出陣の名目は、織田おだ家の当主となった尾張おわりの織田信雄のぶかつ(演:山脇辰哉)を安土城あづちじょう(現在の滋賀県近江八幡市に所在)に迎え入れるためです。

越前えちぜん北庄城きたのしょうじょう(現在の福井県福井市に所在)の勝家は雪に阻まれて、勝豊の救援に行くことができません。一方、秀吉にとって長浜は“勝手知ったる地”です。長浜城の弱点を突いて攻め込もうとする秀吉軍を前に、勝豊は降伏。さらに美濃みのへ侵攻した秀吉に同調して、信雄も尾張から美濃へ。そのほか丹羽にわ長秀ながひで(演:池田鉄洋)、細川ほそかわ忠興ただおきらも羽柴軍に加わっています。

21日、岐阜城ぎふじょう(現在の岐阜県岐阜市に所在)の織田信孝のぶたか(演:結木滉星)は、秀吉にあっけなく和睦を申し出ます。そして信孝のもとで、権威のよりどころとされていた信長の孫・三法師さんぼうしは、秀吉に伴われ安土城に入りました。

翌天正11年うるう正月4日、信雄は織田家の当主として、遅れて安土城に入りました。ただし三法師が秀吉の許に来たため、信雄の地位はやや微妙になっていました。結局、三法師が成人するまでの暫定的な当主とされたようです。この一方的に決められた新体制に、信孝や勝家、織田家の重臣・滝川たきがわ一益かずます(演:猪塚健太)らはもちろん納得できません。

左から、織田信雄、織田信孝、滝川一益

目まぐるしく事態が動きます。同年2月、秀吉は再び近江長浜城を攻め、さらに伊勢いせの一益征伐に向かいます。厳冬のシーズンで越前方面は雪が深いため、まず伊勢に向かったのです。

そもそも一益は、天正10年3月の武田たけだ氏滅亡後も上野こうずけ(現在の群馬県付近)にとどまり、本能寺の変ののちは不安定化する関東情勢、とくに関東の大大名・北条ほうじょう氏に対峙たいじしていました。そのため清須きよす会議かいぎに参加できず、そこで定められた領地の配分からも漏れ、4人の宿老の中にも入ることができず、不満を持っていたようです。さらに北条氏に敗れて上野の所領を失ったのち、伊勢の本領に戻っていたのです。

秀吉は、軍を3つに分けて伊勢に攻めこみました。秀吉の弟・小一郎こいちろう長秀ながひで(のちの豊臣秀長ひでなが 演:仲野太賀)は、1方面の大将として筒井つつい順慶じゅんけい(演:永沼伊久也)らを率い、峯城みねじょう(現在の三重県亀山市に所在)に攻めかかりました。

なお小一郎長秀は、この戦いの途中の天正11年3月から「美濃みののかみ」を名乗るようになっています(正式の官職ではありません)。これまでの「小一郎」に比べ一段と格上の名乗りで、秀吉の指示による改称と思われます。兄弟の勢力が増していることの反映でしょう。

この戦いで名を挙げた“七本槍” 前田利家はなぜ離反した?

雪解けもまだ半ばの3月上旬(新暦では4月末)、勝家が越前から近江に出陣してきました。大将の勝家は、玄蕃尾城げんばおじょう(現在の滋賀県長浜市に所在)に陣をすえました。

秀吉は伊勢から近江に戻り、勝家と対峙しますが、戦線は膠着こうちゃくします。北国街道の山あいの細い道に沿って多数のとりでが築かれました。秀吉軍は堂木山どうきやま砦を最前線に総構そうがまえ(かこい)を築き、道を遮断しました。最前線に堀秀政ほりひでまさら、岩崎山いわさきやま砦に高山たかやま右近うこん(演:市川知宏)、続く大岩山おおいわやま砦に中川なかがわ清秀きよひで(演:すがおゆうじ)、そして田上山たがみやまに小一郎長秀が在陣しました。

大岩山城の南方に賤ヶ岳しずがたけ砦があり、小一郎長秀の家臣・桑山くわやま重晴しげはる(演:住田隆)が守っていました。勝家軍が北国街道の封鎖を突破して畿内に入れるかどうかが、焦点です。

秀吉は後方の、木之本の浄信寺じょうしんじ(現在の滋賀県長浜市に所在)あるいは長浜城におり、伊勢の一益と勝家の両面に備えつつ、小一郎長秀に指示を与えています。この戦いの中で、秀吉から小一郎長秀に出された手紙が数通残されていますが、そこでは細々こまごました情勢や指示、そして些細ささいなことでも知らせるように、と繰り返し記しており、各方面の戦いに細かく気を配っている様子が見えます。

さらに秀吉は、越前の背後の勢力である越中えっちゅう加賀かがの一向一揆や、越後えちご上杉うえすぎ景勝かげかつに働きかけ、勝家を挟み撃ちにしようと画策しました。対する勝家も秀吉の背後の毛利もうり氏や、その許にいる足利あしかが義昭よしあき(演:尾上右近)、土佐とさ長宗我部ちょうそかべ元親もとちか(演:磯部寛之)、徳川とくがわ家康いえやす(演:松下洸平)らに働きかけています。

4月、岐阜城の信孝が再び反秀吉の兵を上げました。秀吉は岐阜に向かいますが、長良川ながらがわが増水しており、ひとまず美濃大垣城おおがきじょうに入ります。同じころ、伊勢方面の戦いが秀吉方の勝利でおおよそ一段落しました。

4月20日、勝家との戦いに動きが生じます。勝家の甥・佐久間さくま盛政もりまさ(演:遠藤雄弥)が大岩山砦を急襲したのです。清秀は戦死し、右近は撤退しました。しかし勝家は追撃することはしませんでした。

ちなみに清秀は、かつて荒木あらき村重むらしげ(演:トータス松本)とともに織田信長のぶなが(演:小栗旬)に謀反を起こし、さらに村重を裏切って織田方に戻りました。そのため裏切り者のイメージがありますが、この賤ヶ岳の戦いでは(ドラマでの描かれ方とは異なり)おそらく裏切っていないと思われます。

秀吉はただちに美濃大垣から賤ヶ岳近くの木之本の陣に取って返します。52㎞を4〜5時間でという猛スピードでの移動でした。そして21日朝、秀吉・小一郎長秀の軍は、佐久間軍を後方から攻撃。戦いは半日ほどで大勢が決し、勝家軍は北庄城に退却しました。

福島正則(右上)、加藤清正(右下)、平野長泰(左上)、片桐且元(左下)

この戦いでは、秀吉・小一郎長秀の直属軍が活躍しました。とりわけ活躍した近習きんじゅうたちが、のちに賤ヶ岳の七本槍しちほんやりと称されるようになります。福島正則ふくしままさのり(演:松崎優輝)、脇坂安治わきさかやすはる加藤かとう嘉明よしあき、加藤清正きよまさ(演:伊藤絃)、平野ひらの長泰ながやす(演:西山潤)、片桐かたぎり且元かつもと(演:長友郁真)、糟屋かすや武則たけのりの7人です。

なおドラマでは、前田まえだ利家としいえ(演:大東駿介)が勝家から離反し、秀吉の味方になっていました。勝家との決闘からお別れのシーンは迫力がありましたね。

秀吉がのちに家臣・大村おおむら由己ゆうこに書かせた記録『柴田合戦記かっせんき』には、利家は4月22日に居城の越前府中城ふちゅうじょう(現在の福井県越前市に所在)で降参し、攻め殺すべきではあるが、勝家を討つことが先決であるのでゆるした、と記されています。

江戸時代の軍記では、秀吉が自ら乗り込んで利家を説得したとのエピソードが見えます。実際に何があったのかはわかりませんが、戦後に利家が家臣に送った手紙では「秀吉と私はとくに昵懇じっこんなので安心するように」と述べています。それまでに築かれていた深い人間関係がうかがわれますね。秀吉の養女・豪姫の実父であること、勝家亡き後の北陸経営での活躍が見込まれたことなどが、利家への寛大な態度につながったのではないかと推測されます。

秀吉軍はさらに追撃し、23日には北庄城に迫ります。ここにはいち(演:宮﨑あおい)もいます。どうなるのでしょうか。

北庄城にいる市(右)と長女・茶々(井上和)

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。