今回は、信長(演:小栗旬)の比叡山焼き討ちが描かれました。その裏で、豊臣兄弟は浅井長政(演:中島歩)の家臣・宮部継潤(演:ドンペイ)調略のため、身内の万丸を預けることになりました。
万丸は、豊臣兄弟の姉のとも(演:宮澤エマ)と弥助(演:上川周作)の間の子、つまり小一郎長秀(のちの豊臣秀長 演:仲野太賀)や藤吉郎秀吉(演:池松壮亮)の甥になります。生まれた年は永禄7年(1564)、8年、10年、11年と諸説あり、はっきりわかりません。いずれにしても今週の放送の冒頭、元亀元年(1570)は、現代ならばまだ小学校にあがる前の年齢だと思われます。

そんな幼い子が、なぜ養子に行くことになったのでしょうか。
まず養父となる継潤について探ってみます。継潤はもともと近江国浅井郡宮部(現在の滋賀県長浜市)を拠点としていました。若い頃の継潤については詳しいことは不明ですが、生前に描かれた肖像画の賛に、その生い立ちが記されています(『虚白録』所収)。残念ながら、賛のみ書き写されて伝わっていて、継潤がどのような姿だったかは不明です。生い立ちは諸説ありますが、この賛は生前のものですので、ある程度信用できるのではと考えています。ご紹介しましょう。
生まれは近江国坂田郡醒井(現在の滋賀県米原市)。父は刑部少輔真舜といい、継潤は8人きょうだいの末っ子でした。生家は、鎌倉幕府草創時の有力武士、土肥実平(2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では阿南健治さんが演じていました)の末裔だといいます。
幼いころ、彼の利発さを見込んだ善浄坊の坊主・宮部清潤に養われ、やがて比叡山延暦寺で出家して継潤と名乗りました。比叡山を下りてからは、南北近江の戦乱の中で、身には鎧をまとい、手には仏具を持って長く強敵と戦っていたところ、秀吉に見いだされたといいます。
継潤は僧ではありますが、「山徒」と呼ばれる武力集団の一人でした。古くから比叡山をはじめ寺院には武力を持つ僧侶、僧兵がいました。継潤も修行の傍ら、まさにドンペイさんのように鍛え上げていたことでしょう。ドラマでも紹介されたように、当時の比叡山は軍事的にも一大勢力だったのです。

また継潤の養父の清潤は地元の神社・湯次社(現在の滋賀県長浜市に所在)に仕える社僧で、この周辺の差配をしている人物でした。継潤も比叡山を下りた後、宮部に帰り、やがて浅井氏に仕えるようになりました。
この宮部の地は、浅井長政を攻めるための重要地点でした。前回、織田軍が攻略し、新たな拠点となった横山城(現在の滋賀県長浜市・米原市に所在 コラム#15参照)と長政の本拠・小谷城(現在の滋賀県長浜市に所在)の間にあるためで、だからこそ織田信長(演:小栗旬)は秀吉に継潤の調略を命じたのです。
秀吉から織田方につくようにと説得を受けた継潤は、ならば保障のための人質を、と求め、豊臣兄弟の甥の万丸が養子の名目で派遣されたのです。まだ敵方と言っていい存在ですし、何かあれば命にも関わります。ドラマで弥助が言っていたように“武家の習い”かもしれませんが、家族の心配は並大抵のものではなかったことでしょう。
ともあれ継潤はめでたく信長の味方となりました。
四面楚歌に陥った信長、ついに怒りを比叡山に向ける!
ところでこの時期、浅井・朝倉氏のみならず、摂津の三好三人衆(コラム#11参照)、南近江の六角氏など周囲の勢力が連携して信長に敵対していました。
元亀元年8月、信長は将軍・足利義昭(演:尾上右近)とともに摂津の三好三人衆を攻撃します。ところがそれまで敵対関係にはなかった、摂津の一大宗教勢力・大坂本願寺までも信長を警戒し、三好の味方についてしまいました。
一方、伊勢では一向一揆が勃発し、その攻勢により信長の弟・織田信興は自害に追い込まれます。さらにその隙に、浅井・朝倉軍は、近江と京をつなぐ位置にあった宇佐山城(志賀城とも。現在の滋賀県大津市に所在)を攻め、守備していた織田家臣・森可成(演:水橋研二)が戦死します。浅井・朝倉は京にも進出してきました。

信長は比叡山に、自分に味方するように、そうでなければ「出家の道理」として中立でいてくれるよう丁寧に頼み、どちらも承知しないならば山を焼く、と脅します。しかし比叡山も浅井・朝倉に味方しました。あちらもこちらも敵に回り、信長は苦境に陥ります。しかし同年末、義昭の仲介で一度は和睦が成立しました。
信長にとって、この年の戦いこそ人生で最も苦しいものだったと評する研究者もいます。
翌元亀2年になると、浅井側の佐和山城(現在の滋賀県彦根市に所在)を降伏させるなど、信長は近江での戦いを有利に進めるようになります。そして9月12日、秀吉と明智光秀(演:要潤)は信長の命により、山麓の門前町・坂本(現在の滋賀県大津市)から比叡山に攻め上り、焼き討ちを敢行しました。

信長は「比叡山は世俗にまみれている」と非難しましたが、前年の申し入れを断られた怒りも大きかったようです。太田牛一著『信長記』には「僧だけでなく俗人も子どもも、男も女も数千人が殺された。山徒ではないので助けてほしいとの懇願も聞き届けられず、目も当てられぬ様だった」(大意要約)と記されています。
その後も数日にわたって比叡山への焼き討ちは続きました。ただし考古学的調査から、全山が焼かれたのではなく、主に坂本が戦場となったのだろうとの指摘もあります。
ドラマで秀吉たちは、焼き討ちの中、比叡山の最高位・天台座主である覚恕(演:黒田大輔)を探していました。曲者感あふれる人物でしたね。ただ、比叡山は基本的に僧侶たちによって集団運営されていたので、座主であっても覚恕に軍事行動への決定権はなかったと考えられます。
じつは覚恕は、焼き討ち前後も山ではなく京に住んでいます。事件直後の9月18日に座主辞任を天皇に申し入れますが、慰留されました。数日後の23日には内裏で法会の導師を務めており、信長も覚恕を追及した形跡はありません。
元亀3年8月、信長は虎御前山(現在の滋賀県長浜市に所在)に本格的に城を築きました。これまでの拠点・横山城と小谷城の間は12kmほどの距離でしたが、ここは小谷城の南1㎞ほどの至近距離です。
加えて信長は、横山城と虎御前山の間にある宮部の砦などを強化させ、宮部砦は継潤に任せました。さらに虎御前山と宮部の間に幅三間半(約6m)の道を築かせ、道脇には築地を立てて水を通すなど防御を固め、連絡体制を整備しました。11月に浅井軍は宮部砦を攻撃しますが、秀吉軍に撃退されています。
幼い万丸の力まで借りて、継潤を味方につけた効果は大きかったといえましょう。織田軍の浅井攻めはいよいよ大詰めを迎えています。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。