永禄えいろく11(1568)年10月、足利あしかが義昭よしあき(演:尾上右近)が征夷せいい大将軍たいしょうぐんに就任すると、月末には織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)は岐阜城(現在の岐阜県岐阜市に所在)に戻ります。

この時、藤吉郎とうきちろう秀吉ひでよし(演:池松壮亮)は、佐久間さくま信盛のぶもり(演:菅原大吉)や村井むらい貞勝さだかつ丹羽にわ長秀ながひで(演:池田鉄洋)らとともに京の守りに残されました。小一郎こいちろう長秀ながひで(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)も、兄とともに京に留まっていたでしょうか。

新将軍義昭は上洛後、当初は醍醐寺だいごじに城を構えようとしましたが折り合わず、年末には本圀寺ほんこくじを宿所としていました。もともとの将軍の御所は、義昭の兄である13代将軍足利義輝よしてるが横死した「永禄の変」の折に焼けてしまっていたのです(コラム#10参照)。

なおドラマでは、もと三好みよし家臣の松永まつなが久秀ひさひで(演:竹中直人)が、この「永禄の変」への関与を疑われていましたが、加担していたのは息子の久通であり、隠居していた久秀自身はおそらくあずかり知らぬことだった、と考えられています。

ところで、なぜ将軍がお寺を宿所に?と疑問に思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。

信長も入京当初は清水寺きよみずでらを宿所にしていました。大勢の軍勢が京にやって来た場合、現在のような整備されたホテルはもちろんないので、その人々や馬などが滞在する場所の確保が問題になります。寺院・神社は、広い敷地と建物を持っているため、こうした時に接収されることがよくありました。

当時、日本にいた宣教師ルイス・フロイスは、「ふつう仏寺はまっさきに兵士らの屯営とんえいなり宿舎にあてられて自由奔放に使用されるのが常である」と書き残しています。

当然、トラブルも多発しました。信仰の場である堂がうまやとされたり、兵たちが荒っぽく建物を使用したりしたようです。境内に生えている竹や木を戦のための資材として持って行ってしまうこともありました。

それを防ぐため、寺社から大将に頼んで、宿所とすることを免除する命令を出してもらうこともしばしばありました。じつは本圀寺も、信長軍が上洛してくると聞くと先回りして岐阜に赴き、多額の礼金を払って軍勢の宿舎にされないよう、寺が乱暴されないよう、信長の命令をもらいました。

しかし本圀寺の願いはかなわず、結局、義昭の仮御所になりました。

本圀寺が選ばれたのには理由があります。本圀寺は現在の下京区柿本町にあった法華ほっけ日蓮にちれん)宗の大寺院で(現在は移転しています)、最盛期には約18万平方メートル(東京ドーム3.8個分)という広大な敷地を持っていました。発掘調査や宣教師の記録から、その周囲には広い堀や塀、土居(土塁)が何重にもめぐらされていて、要害のようになっていたことが明らかになっています。そうした構造が将軍の仮御所にふさわしいとされたと考えられます。

ちなみにドラマの会話にもあったように、三好氏は法華宗とは縁が深く、久秀は本圀寺の大檀おおだん(有力な檀家)でした。

三好三人衆に将軍の警備体制の隙を突かれた信長は……

三好三人衆。左から、三好宗渭、三好長逸、石成友通

ところが信長が京から岐阜に帰り、年末に久秀が岐阜に赴くと、三好三人衆(三好長逸ながやす[演:中野英樹]、三好宗渭そうい[演:奥田洋平]、石成いわなり友通ともみち[演:阿部亮平] )が不穏な動きを見せ始めます。

そして年が明けたばかりの正月5日、大事件が起きました。信長軍の上洛時、ほぼ戦わずに撤退し勢力を温存していた三好軍が、京の守りが手薄になった隙をついて本圀寺を襲撃したのです。押し寄せた三好軍は1万人ほどともいいます。

また三好軍には、先に美濃から退去し、三好に身を寄せていた斎藤さいとう龍興たつおき(演:濱田龍臣)も参加していました。龍興も美濃復帰をまだ諦めていません。

本圀寺では、義昭の側近・明智あけち光秀みつひで(演:要潤)や細川ほそかわ藤賢ふじかたが防戦しました。義昭も馬に乗って陣頭に立ち、自ら敵を討ち取りました。翌日、細川藤孝ふじたか(演:亀田佳明)や和田わだ惟政これまさ(演:玉置孝匡)らが援軍に駆け付けると、三好軍は徹底的に戦うつもりはなかったようで、撤退しました。

一方、岐阜の信長への連絡は遅れたようです。知らせを聞いた信長は急いで京に駆け付けますが、到着した時は正月10日になっていました。義昭を将軍にけたとはいえ、将軍周辺の警備も非常時の連絡体制も、まだきちんと構築できていなかったと思われます。もし義昭に万が一のことがあれば、信長の立場はなかったでしょう。

本圀寺の騒動の時、豊臣兄弟が何をしていたかは史料上わかりません。前年10月末に秀吉とともに京に残った丹羽長秀は、年末には岐阜に戻っているので、兄弟もそのタイミングで帰国していた可能性があります。

ただし騒動後の正月11日、信長に挨拶に赴いた公家は、信長とともに秀吉にも付け届けを渡しています。ですので、この時には信長のそばにいて、京の人々との間をつなぐ役割を果たしていたことがわかります。

さて今回はどうにか三好軍を退けましたが、根本的な解決には至っていません。信長は今後どのように対処していくのでしょうか。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。