今回の放送では、織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)の義弟・浅井あざい長政ながまさ(演:中島歩)の本拠・小谷おだにじょう(現在の滋賀県長浜市)が落城し、長政は切腹しました。室町幕府15代将軍・足利あしかが義昭よしあき(演:尾上右近)は追放され、越前えちぜん朝倉あさくら氏も滅び、長く続いた信長周辺の危機は一段落したのです。

最初に、将軍追放にいたるまでの経緯を見てみましょう。

義昭は、将軍就任の恩人だった信長といつしか対立するようになりました。元亀げんき4年(1573)2月、義昭は反信長の兵を挙げます。浅井・朝倉とも連携したでしょう。一度は和睦しますが、再び対立し、5月には甲斐かい武田たけだ信玄しんげん(演:髙嶋政伸)をはじめ、各地の有力者に信長追討の命令を送りました。

信玄は、前年より徳川とくがわ家康いえやす(演:松下洸平)の遠江とおとうみ三河みかわに攻め込み破竹の勢いで進んでいました。家康自身、三方ヶ原みかたがはら(現在の静岡県浜松市)の戦いで手痛い敗北を喫しています。信玄の行軍の真意は不明ですが、京では信玄が上洛してくるとのうわさもありました。ところが信玄は元亀4年4月12日に戦陣で急死し、武田軍は帰国していました。

つまり義昭の命令が出た時には、すでに信玄は亡くなっていたのです。

義昭は、信玄の死を知らないまま、7月3日に再び信長と断交し、宇治うじ槙島まきのしまじょう(現在の京都府宇治市)で挙兵しました。しかし、武田はもちろん、その他の反信長勢力の援助は得られず、信長軍に攻められ、7月18日には追放の憂き目を見ます。

義昭は槙島城から枇杷びわのしょう(現在の京都府城陽市)に、そして三好みよし義継よしつぐ若江わかえじょう(現在の大阪府東大阪市に所在)に移りました。乗り物にも乗れず徒歩で落ちのびる姿は、目も当てられず哀れなありさまだったようです。枇杷荘への道中では、盗賊に襲われ、財産を奪われたとも噂されています。

義昭は諦めず、その後も再び将軍として上洛しようとさまざまに画策しますが、実質的に室町幕府は終焉しゅうえんを迎えることになりました。

義昭追放のわずか3日後、信長から朝廷に改元の申し出があり、10日後には年号が「元亀」から「天正てんしょう」に改められました。第13回・14回放送で描かれたように、「元亀」は義昭の将軍就任を象徴する年号でした(ただしドラマで描かれたような、この改元に信長が反対した様子は実際には見えません)。

それを改めた「天正」は、いくつかの年号候補の中から信長自身が選び、朝廷に申し出たものです。義昭の世が終わり、信長の世になったことを示すものでしょう。

浅井氏滅亡の陰で、長政の人柄がしのばれる家臣への手紙

信長は、近江おうみ虎御前山とらごぜやま(現在の滋賀県長浜市)に再び出陣し、8月10日には織田軍が小谷城を包囲しました。浅井方の山本山やまもとやまじょう(現在の滋賀県長浜市に所在)が信長に降伏し、これによって小谷城は孤立した状況になっていたのです。

同月16日に、小一郎こいちろう長秀ながひで(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)が黒田村くろだむら(現在の滋賀県長浜市)に出した命令の文書が伝わっています。黒田村は、小谷城の北10㎞ほどにある村です。この文書には「木下小一郎長秀」の署名があり、現在、長秀の存在を知ることができる最も古い史料です。どういう内容の命令書だったのでしょうか。

8月10日ごろ、黒田村付近には長政の援軍に来た朝倉あさくら義景よしかげ(演:鶴見辰吾)の軍勢2万人が「充満」しました(太田おおた牛一ぎゅういち著『信長記しんちょうき』 )。13日夜中、信長は自ら先陣を切ってこの朝倉軍に攻めかかります。長秀の兄・藤吉郎とうきちろう秀吉ひでよし(演:池松壮亮)も先陣を命じられていましたが、出遅れてしまい、叱られるという場面もあったようです。

戦禍を恐れた黒田村の住人たちは、村から逃げ出しました。長秀の命令書は、彼らに村に帰るように、帰ってきてもわが軍は乱暴しない、乱暴するような者がいたら知らせるように、という内容です。ここから、浅井・朝倉軍との戦いも終わりが近づき、新たな支配地となる近くの村々に気を配る段階になっていること、また、この頃には長秀がそうした支配に携わるような武将格の立場になっていることがわかります。

さて、13日に朝倉軍を破った信長はそのまま北上し、義景を追い詰めていきます。朝倉方の諸将は次々と信長に降伏し、18日には、ついに朝倉の本拠・一乗谷いちじょうだに(現在の福井県福井市)に攻め込みました。そして義景は、一族の朝倉景鏡かげあき(演:池内万作)の裏切りにより殺害されます。

室町時代初期から越前の守護代として活躍し、戦国大名としても勢力を誇った朝倉氏宗家は、このようにして滅亡しました。

実はこの朝倉氏滅亡時、かつての美濃みのの主・斎藤さいとう龍興たつおき(演:濱田龍臣)も戦死しています。稲葉いなばやまじょう(現在の岐阜県岐阜市に所在)から退去した後、各地を転々としながら美濃奪還を狙っていた龍興ですが、望みは果たされませんでした。

一乗谷を落とした信長軍は近江に取って返し、小谷城を攻めたてます。そして、8月末に小谷城は落城。9月1日、長政は死去しました。

亡くなる前日に長政が、家臣の片桐かたぎり直貞なおさだ(秀吉の家臣として有名な片桐且元かつもとの父)に宛てた文書が残されています。苦しい戦いの中でしたためたためか、城はもう曲輪くるわ一つしか残っていないこと、家臣たちが裏切って(「抜け出て」)いく中、直貞が忠節を尽くしてくれることへの感謝が小さな紙に書かれています。長政の人柄がうかがわれますね。

長政の妻であり、信長の妹のいち(演:宮﨑あおい)は、茶々ちゃちゃはつごうの3人の娘とともに信長のもとに帰りました。ドラマでは、切腹する長政を市が介錯かいしゃくする印象的な場面がありましたが、おそらく城が最後の総攻撃を受ける前に退去したのではないかと思われます。

一方、長政の子・万福丸まんぷくまるは戦場を逃れ、ひそかに隠れていました。しかし結局信長軍に捕まり、処刑されてしまいます(万福丸がいつ一乗谷に人質に行ったのか、小谷城に帰ってくることができていたのかは不明です)。わずか10歳でした。

こうして、4年にわたる元亀の争乱に一区切りがつきました。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。