天正13年(1585)8月2日、長宗我部元親(演:磯部寛之)の降伏を受け、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉 演:池松壮亮)は、弟・秀長(演:仲野太賀)に戦後処理に関する長文の命令を送りました。
そのなかに、阿波の支配に関する指示も見えます。阿波は、蜂須賀正勝(演:高橋努)の子・家政に与え、渭山城(現在の徳島県徳島市に所在)か、あるいは良い城を見計らって居城にするように、との命令です。
家政は秀吉の指示通り、渭山城を修築して徳島城を築きました。父の正勝は、四国攻めの折には元親との交渉に力を尽くし、降伏後にも戦後処理に奔走しています。親子で、秀吉の傍近くでの奉公と領地の支配の仕事を分担していたようです。

しかし正勝は、翌天正14年5月に61歳で死去します。豊臣兄弟の出世の初期から協力し、長く黒田官兵衛(演:倉悠貴)とともに毛利氏との交渉を担っていた人物です。ドラマでも存在感のあった正勝の死去は寂しいですね。
さて、天正13年に戻りましょう。
秀吉は8月2日に佐々成政(演:白洲迅)討伐のため越中に出陣し、成政を降伏に追い込みました。成政は越中の領地の大半を没収されますが、命は助けられ、秀吉の傍でお伽衆として仕えるようになりました。
秀吉は北陸地方の知行(領地)を再配分し、さらに畿内に戻ると閏8月下旬から9月にかけて、大和・伊賀・近江などの知行の大規模な再配分を行ないました(ドラマでは皆に一度に申し渡していましたが、実際には再配分の日は少しずつ異なります)。
こうして、かつて清須会議(コラム#30参照)で定められた領地配分は一新されました。秀長にはこれまでの紀伊・和泉に加えて大和が与えられ、羽柴家中で最大の知行となりました。兄弟の姉・とも(演:宮澤エマ)の子である秀次(演:山田涼介)は近江八幡の要衝を与えられます。

興福寺など一筋縄ではいかない大和の寺社勢力
秀長が初めて大和国入りした9月3日、秀吉も大軍を率いて同行し、大和郡山城(現在の奈良県大和郡山市に所在)に入りました。興福寺・東大寺の人々をはじめ大勢が出迎えに集まりました。
5日、秀吉が奈良の春日大社に参詣すると聞き、興福寺の僧が急いで迎えにいきますが、秀吉は大坂城(現在の大阪府大阪市に所在)に帰ってしまったあとでした。「秀吉は一段とご機嫌が悪く、興福寺もついに落ちるだろうか」と僧は日記に記しています。秀吉の不機嫌の理由はわかりませんが、当時はかなり緊張感が漂っていたようです。
なぜ緊張感が漂っていたのでしょうか。ドラマでは、秀吉が「大和は(治めるには)もっとも厄介じゃぞ」と忠告し、秀長も「(厄介なのは)坊主や神主どもであろう?」と答えていましたね。秀長の新たな領地・大和について、追ってみたいと思います。

奈良には古くは都(平城京)があり、中世になっても興福寺や東大寺、春日大社などの有力な寺社が大きな権力を持ち、栄えていました。現在では世界遺産に認定されていますね。そして、こうした寺社につながる中小の勢力が散在し、室町時代にも一国を支配する守護は置かれていませんでした。外部からやって来る支配者には治めにくい地だったと思われます。
秀長の最初の入国時に秀吉が同行したのも、初めに羽柴家の権威を見せておこう、という考えからでしょうし、機嫌の悪そうな態度を示したのもそうした考えからかもしれません。秀長が郡山に本拠を構えたのも奈良と距離を置こうとしたからと考えられます。
大和の前領主・筒井定次(筒井順慶[演:永沼伊久也]の養子。順慶は天正12年死去)の筒井氏は、もともと興福寺に属する衆徒の家柄でした。そんな定次から、奈良に縁もゆかりもない秀長が領主になると聞いた興福寺の人々は、先々どうなるかと心配して定次を残してくれるよう秀吉に訴え出ています。
しかし訴えは認められず、閏8月24日に定次は大和を退去しました。秀長は翌日25日付で、秀長の入国以前に大和で乱暴狼藉をはたらく者がいたら捕えるように、との命令を出しています。
秀長は入城後、筒井氏の城だった郡山城の拡張を進めます。
ドラマのラスト近くで、秀長が石垣を拝んでいる場面がありました。じつは、郡山城の石垣には奈良時代のものをはじめ多数の石仏・石塔が転用されています。外面に見える範囲でもおおよそ1000に及ぶといいます。

(写真提供:大和郡山市)
同様の転用は、安土城(現在の滋賀県近江八幡市に所在)や和歌山城(現在の和歌山県和歌山市に所在)など、この時期よく行われています。ドラマの秀長は、郡山城の石垣の一部となった石仏を見つけて拝んでいるのでは、と推測されます。
さらに秀長は、大和でも紀伊でも(和泉はやがて秀長の手を離れます)、土地の実情を知るための検地(課税のための土地調査)を始めました。検地は寺社や村の自己申告に基づいて行われました。ところが興福寺をはじめとする寺社は、6年前に行われた検地より倍近い大きな数値を、自らの領地であると報告してきました。
秀長は、この申告を認めることはできないとはねつけます。以後数年にわたって、寺社の領地を確定するため、升を定めるなどさまざまなやりとりが続きました。大和の寺社勢力は、なかなか一筋縄ではいかない相手のようです。
新たな領地を得た秀長ですが、3国の領主としてやや今後に不安が残る滑り出しですね。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。