
天正16年(1588)閏5月14日、佐々成政(演:白洲迅)は豊臣秀吉(演:池松壮亮)の命により切腹しました。
成政は、前年天正15年の九州征伐ののち肥後国を与えられますが、地元の武士たちによる一揆が勃発していました(コラム#42参照)。秀吉は、小早川隆景(演:山本浩司)、黒田官兵衛(演:倉悠貴)らを救援に派遣し、長引くようであれば弟の豊臣秀長(演:仲野太賀)、甥の秀次(演:山田涼介)らを差し遣わすと命じています。
さらに秀吉は、諸将に成政に対する怒りの長文を次のように書き送っています。
成政は柴田勝家(演:山口馬木也)の味方を何度もしたのをはじめ、敵対したが許してやった。肥後を与えて、兵糧や鉄砲玉薬なども与え、慎重に支配するよう言い含めたのに、言うことを聞かずに強硬な政治を行い、一揆が発生した。不届きである。
とはいえ近隣の大名たちの助けによって、年末には一揆は鎮圧され、一揆側の武士たち1000人余りは処刑されました。翌天正16年正月、成政は居城・隈本城(現在の熊本県熊本市に所在)を秀吉の使いに差し押さえられ、2月には出頭を命じられます。そして、「ひと月も国を保つことができず、秀吉の面目も丸つぶれである、現地での調査の上で処罰を決める」として尼崎に幽閉されました。

閏5月、「一揆の首謀者を処罰した以上は、不憫ではあるが成政を許しては贔屓になる」と、秀吉は切腹を命じました。肥後は佐々に代わって加藤清正(演:伊藤絃)に与えられます。
成政の切腹時の年齢は50歳から73歳まで諸説あります。織田信長(演:小栗旬)が織田家の家督を継いだころから、信長の側近くで活躍した武将です。豊臣兄弟とも長い付き合いがあったことでしょう。実際、何度も敵対しながら赦され、肥後国を与えられる好待遇を受けているのは異例なことです。秀吉は成政を高く評価していたと推測されます。
佐々家は断絶しましたが、娘は翌天正17年に、摂関家の一つ、鷹司家に嫁ぎました。おそらく秀吉の養女格とされての結婚でしょう。その娘(成政の孫)・鷹司孝子は、徳川家康(演:松下洸平)の孫、江戸幕府3代将軍・徳川家光の御台所になります。
秀長は細かい気配りで輝元、家康らの心をつかむ

古くからの馴染みには、前田利家(演:大東駿介)もいます。利家の娘で秀吉の養女・豪は、この頃、宇喜多秀家(演:永嶋柊吾)に嫁ぎました。
秀家は豪より2歳年上、備前を本拠とする武将です。天正10年に11歳で家督を継ぎました。秀吉のお伽衆・大村由己の記した『柴田退治記』には、「播磨で別所が謀反を起こしたとき、秀家の父・直家(演:緋田康人)は秀吉に味方した(コラム#23参照)。これにより直家が亡くなったのち、嫡男秀家を召し出して婿君とし、名字を許して羽柴八郎秀家と名乗らせ、所々の領地を与えた」と記されています。
ということは、『柴田退治記』の記された天正12〜13年ごろには、すでに豪との結婚が決まっていたと推測されます。早くから秀吉と同じ「羽柴」名字を許され、親戚として扱われています。
天正15年の九州征伐では先陣を務め、天正16年には清華成を遂げ、秀家は豊臣政権の中で最上級の格に位置付けられました。この「清華成」とは、このとき初めて設けられた新たな身分で、この時点で弟の秀長、妹婿の家康、甥の秀次を含めて4人のみに認められました。秀吉が、秀家・豪夫妻に高い期待を寄せていたことが窺われます(のちに上杉景勝、毛利輝元[演:濱正悟]、利家、隆景が加わります)。

ドラマでは、秀長がこの秀家と利家、家康、輝元、隆景を郡山城(現在の奈良県大和郡山市に所在)に招いて、秀吉への気持ちを尋ねている場面がありました。そうしたことは本当にあったのでしょうか。
家康は、天正16年8月末に郡山城を実際に訪れています。秀長は山城国の木津(現在の京都府木津川市)まで家康の迎えに出、奈良での遊興ののち、帰りも木津よりさらに東の笠置(現在の京都府笠置町)まで見送るなど、歓待しました。
輝元は、この年7月初めて上洛しました。秀吉に対面し、内裏に参って清華成を遂げます。7月30日、秀長は輝元を京都の屋敷に招待しました。そこには秀吉のほか、織田信雄(演:山脇辰哉)、家康、秀次、秀家、景勝らが同席しました。有力者が一堂に会し、京都の屋敷で盛大なもてなしが行われたのです。8月6日、15日にも秀長の招きで茶会などが催されました。
さらに9月4日、輝元は中国地方への帰国の途中、大和に招かれ、4日間滞在しました。郡山到着時には、秀長が馬を飛ばして出迎え、郡山城で茶席や能などを催しました。さらに奈良に赴き、猿沢池、若草山、興福寺や東大寺、春日大社など名所の観光案内をし、深夜まで語りあうという手厚いもてなしでした。秀長が有力武将たちの接待を任され、彼らの心をつかんでいる様子が窺われます。

ドラマではこうしたエピソードを組み合わせ、郡山城を舞台にして有力者たちの会談の場面を設定したのでしょう。今回集まったのはいわゆる「五大老」、秀吉の死後に豊臣家を託された人々ですね。
この集まりでは、秀吉の出した「刀狩令」が話題になっていました。刀狩令は、早くは天正13年の紀伊攻めの後に紀伊国に出され、さらにこの天正16年7月に九州・畿内に発布されました。これは庶民が刀などを持つことを禁止する命令で、一揆の発生を防止するとともに、建造中だった京都大仏の金具を調達するためとされました。

ただし、実際には武器の強制的かつ徹底的な没収ではなかったようです。その後も農村では、害獣駆除のための武器などは保持し続けています。この命令の狙いは、人々が勝手に武力を行使することを禁じることを公に示すことでした。ドラマでは、このあたりの機微を秀長と秀次の施策の違いとして描いていました。
さて、秀長と秀次という叔父と甥の関係が、今後のドラマでどのように描かれるのかも気になりますね。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。