小一郎こいちろう長秀ながひで(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)と藤吉郎とうきちろう秀吉ひでよし(演:池松壮亮)兄弟は、今回、見事に一夜で墨俣すのまたじょう(現在の岐阜県大垣市に所在)を築きあげました。

佐久間さくま信盛のぶもり(演:菅原大吉)や柴田しばた勝家かついえ(演:山口馬木也)といった織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)配下の名だたる重臣たちが失敗した難事業をやりとげたことで、秀吉が大出世するきっかけとなった逸話です。

有名な逸話ではありますが、この話もほかの秀吉の逸話同様、時代とともにどんどん“盛られて”いったことが、研究で明らかにされています。どのように変化していったのか、ご紹介しましょう。

信長が行った“築城”がいつの間にか秀吉の功績に?

まず、これはいつの出来事なのでしょうか。ドラマでは永禄えいろく9年(1566)としていますが、現在のところ、同時代の史料でこの件に関わるものは見つかっていません。

信長の行動を知る上で基本となる史料に、信長の家臣・太田おおた牛一ぎゅういちが書いた『信長記しんちょうき』があります。ここにも墨俣一夜城に関する記述はありません。ただ墨俣に関しては、永禄4年に信長軍が美濃に攻め入った時、墨俣に侵出して堅固な陣城じんじろ(一時的なとりで)を構えて信長の陣とし、やがて撤退したことが記されています(コラム#05参照)。

江戸時代初期に書かれた小瀬おぜ甫庵ほあん太閤記たいこうき』には、永禄5年に信長軍が墨俣に要害をこしらえたという記事、また永禄9年に信長が美濃国に要害を築き、秀吉が城主となったという記事があります。

後者の記事、『太閤記』巻一「秀吉卿一命を軽んじ敵国において要害の主となる事」のストーリーを見てみましょう(現代語訳要約)。

ある時、信長は「美濃攻略のために、長良川ながらがわの向こうにを構えようと思う。誰か砦を預かろうという希望者はいるか」と重臣たちに尋ねた。しかし敵国の最前線であり、希望者はいなかった。そこで秀吉に尋ねたところ、秀吉は、その砦に入れ置くべき者として蜂須賀はちすか正勝まさかつ(演:高橋努)らの名をあげ、「私秀吉が大将として行きます」と名乗りをあげた。

その志を信長は褒め、砦建築の準備を始めた。木材などの資材を準備させ、永禄9年9月1日にこれらの資材を川に流して運ぶためにいかだに組ませた。4日、小牧山こまきやまじょう(現在の愛知県小牧市に所在)に人々を集め、翌5日に信長の指揮のもと、砦の築造が始まった。斎藤さいとう龍興たつおき(演:濱田龍臣)方の妨害を防ぎつつ、7日、8日にはおおよそ出来上がり、秀吉が大将として入った。配下には3000人ほどが付けられた。

美濃国主の斎藤龍興(右端)と美濃三人衆

秀吉、大出世ですね。『太閤記』では、その後に大沢おおさわ次郎じろう左衛門ざえもん(演:松尾諭)が守る鵜沼うぬまじょう(現在の岐阜県各務原市に所在)攻めのエピソード(ドラマでは第5〜6回の出来事)が記されています。墨俣一夜城は、鵜沼城攻めの前の出来事としているのかもしれません。

また『太閤記』には永禄9年の出来事とあるものの、そこに墨俣の地名は見えません。さらに陣頭に立ったのは秀吉ではなく信長で、あらかじめ建築部材を加工しておき、それを川に流して現地に運び、現地での造営はおおよそ3、4日で遂げたことになっています。

ドラマで、長秀が「下ごしらえ」と言っていたやり方ですね。ただこの時代、こうした建築方法はそれほど珍しくはなかったようです。

伝説は、一代で立身出世した秀吉のイメージぴったり!

さらに話は“進化”していきます。江戸時代中期になると、『太閤記』の2つの話をあわせたのか、永禄5年に信長が墨俣に城を築き、秀吉を城主とする、という話になりました。そして同時代の『絵本えほん太閤記たいこうき』では、ドラマで描かれたように、佐久間信盛や柴田勝家の失敗の話、そして秀吉が知略により一晩で城を築いたとの「洲股砦一夜成すのまたのとりでいちやになる」伝説として描かれています。

その後、明治時代に入ると、この逸話は甫庵『太閤記』に基づいて永禄9年の出来事とされるようになりました。このように、時代とともに墨俣城をめぐる語りは変化していったのです。

ただ前後の情勢からみても、“秀吉による墨俣一夜城”は実在しなかっただろう、と現在は考えられています。とは言っても、奇策を廻らせて一晩で城を築くというエピソードは、まさに一代で立身出世した秀吉のイメージにぴったりの伝説ですね。

江戸時代の人々が秀吉の小気味よく痛快な活躍ぶりを求めたことで、よりドラマティックな活躍譚へと膨らんでいったのでしょう。こうした伝説の変遷も興味深いところです。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。