大関和(医療法人知命堂病院提供)

3月30日(月)から放送がスタートした連続テレビ小説「風、薫る」。本作は、日本で「看護」という職業がまだ確立していなかった明治の時代を舞台に、その道を切りひらいた一ノ瀬りんと大家直美の人生を描く物語です。

放送にあたり、ステラnetでは「風、薫る」をより楽しめるようなコラムをお届けします。

ドラマの主人公・りんのモチーフとなっている「大関ちか」は、明治時代に誕生したトレインドナース(正規に訓練された看護婦)で、「看護の原点」と言われる人物です。

 現在の呼称は「看護師」
※本作は、実在の人物をモチーフとしていますが、物語として大胆に再構成しています。

今回は、その大関和を長年研究し、ご自身も看護の道を歩まれてきた加藤みつさんと日本看護協会会長の秋山智弥さんにお話を伺いました。お2人は、東京大学医学部附属病院に勤務していた当時、加藤さんが病棟師長、秋山さんが新人看護師として、看護の現場を経験し、その後新潟県立看護短期大学(当時)での看護教育にも、ともに携われた間柄でもあります。大関和の功績や、現代に続く看護教育への影響、そしてドラマでも描かれる「(ひ)病院」についてなど、たっぷりと語っていただきました。前編・後編に分けてご紹介します。


「看護」の道を切り拓いた大関和

左/加藤光寳さん 新潟県立看護大学名誉教授。昭和12年(1937年)茨城県生まれ。1957年、東京大学医学部附属看護学校入学。60年東京大学医学部附属病院に就職、整形外科に配属。働きながら共立女子大学短期大学部(夜間)に入学。67年、主任看護婦、84年、看護婦長に。94年、新潟県立看護短期大学教授、95年、常磐大学大学院人間科学研究科修了。2007年、獨協医科大学看護学科学部長、14年、報徳看護専門学校校長など歴任。

右/秋山智弥さん 公益社団法人日本看護協会会長。1992年東大医学部保健学科(当時)卒業後、同大病院整形外科病棟に勤務。98年同大大学院医学系研究科修士課程修了後、新潟県立看護短大助教授。2002年より京大病院勤務、11年より同院病院長補佐・看護部長。17年岩手医大看護学部特任教授、2021年より名古屋大学医学部附属病院卒後臨床研修・キャリア形成支援センター看護キャリア支援室長/教授、2025年より日本看護協会会長。

系統的・組織的教育を受けた看護の専門職、すなわちトレインドナースが誕生する以前、日本の看護は「仕事」として確立されていませんでした。医療の「手伝い」、患者の「世話」と捉えられていた時代です。

秋山:大関和さんは「看護の原点」と称される、日本のトレインドナースの先駆者です。大関さんのようなトレインドナースの登場によって、看護は経験則(広く経験から得られる知識・法則)から専門職へと大きくかじを切りました。 日本の看護師の在り方が変わったと言えると思います。加藤先生は大関さんについて長年研究されてきましたね。

加藤:私が看護学生だった頃は戦後15年ほどったころで、参考書はほとんどありませんでした。学びは現場が中心でしたね。それでも何とか手がかりを探そうと、本屋で参考資料になりそうなものを探し続けていました。そこで出会ったのが、大関和について書かれた記述だったんです。そこからのめり込むように大関和について調べるようになりました。

大関和は1858年(安政5年)4月11日に下野国(栃木県)黒羽藩家老、大関弾右衛門の次女として生まれる。安政の大獄や福沢諭吉が江戸に私塾を開いた年で、コレラも流行した年だった。18歳で結婚し、2人の子どもを授かったものの離婚。28歳で桜井女学校(現在の女子学院)に併設された看護婦養成所に入学し、卒業後は帝国大学医科大学附属第一医院(現在の東京大学医学部附属病院)外科看護婦取締に就任した。

加藤:大関和は何冊も教科書を書いていますが、特に晩年、闘病しながら自身の体験も含めて著した『実地看護法』(1908年)は、今読んでも学ぶことの多い一冊です。排泄器具のイラストまで描かれていて、その実践性に驚かされます。大関は「精神(品位、倫理的態度)・言行(行動・態度、看護の実践)・学技(知識・技能)」を看護の基本として、看護教育に尽力しました。

「実地看護法 復刻版」大関和,医学書院(国立国会図書館デジタルコレクションより)

秋山:看護には知識や技術だけでなく、品位や倫理、精神的な強さも求められます。それらを兼ね備えていたのが、大関和という印象です。看護師は患者さんの世界に近寄っていかなければならない。療養への不安や恐れがあると、治癒力を引き出せないんですよね。患者さん自身がよくなっていくプロセスには、安心できる環境が不可欠です。大関和さんはそのことをよく理解していたのだと思います。

加藤:私自身も、患者さんとの関わり方、いわゆる「関わり技法」(患者とのコミュニケーションスキル/積極的傾聴法など)を大切にしてきましたが、大関和もまさにその点がけた人でした。面倒見すぎるのもよくないけれど、決して患者に嫌われず、寄り添う。その関わり方が人を癒やして、治していくことをわかっていたんですね。そして、大関にならって私も後輩の教育においても折々に基本的なことを伝えていました。そのことがそれぞれの成長につながっていったと思っています。

大関和が『派出看護婦心得』を出版したのが明治32年(1899年)。上流階級は自宅療養が基本だったこの頃、大関和は多くの上流階級から声がかかった。鷹司侯爵夫人とその子息のチフス看護や、徳大寺侯爵の肺炎看護、大臣婦人の看護にもあたっている。また、感染症が蔓延まんえんし「伝染病は怖い」とされていたこの時代に、進んで患者のもとに駆け付け、寄り添った大関和は、「派出看護」という分野を確立させた。赤痢の隔離所(避病院)の集団看護などにも尽力。100人前後の収容人数であったにもかかわらず、死者が数名だったことは大関和の誇りである。


畏怖の存在だった「避病院」

「風、薫る」第1週では、りんの住む村にもコレラ(コロリ)が蔓延し、感染者が「避病院」に運ばれていく様子や、また医療知識も技術もない看病で雇われた男が病人の世話をしに家に入る場面もありました。1874年(明治7年)の医制公布により開業医が誕生し、多くの場合、その手助けを求められた女性は医師の家に住み込み、家事を手伝いながら病人の世話をする――いわば「医者の手伝い」をする形が看護の主流でした。

明治の頃の大田原避病院(大田原市提供)

秋山:加藤先生は避病院を実際にご覧になったことはありますか?

加藤:私が小学生の頃なので、昭和19~20年頃、茨城の実家の近くにありました。明治から昭和前期に存在した感染症の“隔離専用施設”です。普段は閉まっているのに、流行が始まると明かりがつき、人の出入りが急に増えはじめるんです。小学生のときに運ばれる人を見たこともあって、怖いと感じましたね。お巡りさんが2人、患者を先導していくんですが、周囲の人が近寄らないように制しながら患者を運んでいました。

秋山:そんな環境でも、看護婦は寄り添って看護をしなければならなかった。病気を理解し、正しい立ち居振る舞いで感染症から自分の身を守りながら、患者さんに安心してもらう。恐れつつもその一歩を踏み出すには勇気がいることですが、志が高かったのだろうと思います。大関和が感染症患者に寄り添った姿勢は、コロナ禍で現代の看護師が体験した苦労と重なります。

加藤:正しく恐れる、ということですね。大関和は、看護技術や感染症の防御法などの「学技」だけでなく、そういう「精神」や「言行」的な側面も伝承してくれた、100年に1人の逸材だと思います。避病院という厳しい現場こそ、大関和の看護哲学が磨かれた場所の象徴と言えると思います。


社会運動にも参加した進歩的な女性

加藤:明治から大正にかけては、女性が働いて自立することはほとんどありませんでした。そのような時代に、大関和は女性の職業として派出看護を確立し、女性の経済的自立の道を切り拓いたのです。明治33年に日本で最初の看護婦規則が東京府布令として制定(内務省令は大正4年)されましたが、大関は看護婦の質の低下を憂い、内務省に足しげく通って制度整備を訴えていたんです。当時内務省衛生局長であった後藤新平に談判し、看護婦規則の制定に尽力しました。
大関和は社会運動家という一面もありました。再婚を考えていた社会運動家の木下尚江が収監されると、毎日欠かさず差し入れをしていたという逸話も残っています。ある意味、非常に進歩的な女性でしたね。自作の詩を曲にのせてオルガンで弾いて、みんなに合唱させたりするなど、非常に活動的な女性だったといいます。

秋山:やはり大関さんのような人がいないと世界が開かれていかないんですよね。帝国大学医科大学附属第一医院(現・東大病院)外科看病婦取締の頃、教授に看護婦の教育や待遇に関する建議書を提出して、結局病院を辞めることになりましたね。

加藤: 帝国大学を辞した後、大関和は新潟県高田の知命堂病院で看護婦長になり、看護教育に携わります。私も東大病院を辞めて新潟に招かれたとき、ご縁を感じて新潟の地で新たな一歩を踏み出す覚悟ができました。

知命堂病院時代の大関和(右)と院長夫人の瀬尾ソノ(医療法人知命堂病院提供)

秋山:大関和は看護について理解のある瀬尾院長との出会いで知命堂病院に看護婦長として迎えられるのですが、看護を精一杯せいいっぱい行える環境だったのでしょう。医学と看護学はアプローチが異なっていて、医学は悪いところを治していく。看護学は治癒力を引き出すというもの。知命堂病院での大関和の経験は、今の看護教育の礎にもなっているのではないでしょうか。


大関和はナイチンゲールの孫弟子にあたり、当時「日本のナイチンゲール」とも呼ばれました。後編では、その人柄や所以ゆえんなどについてご紹介します。「風、薫る」での一ノ瀬りん、大家直美の激動の日々もお楽しみください。

(取材・松田久美子 [NHK財団] / 文・島田ゆかり)
(取材協力:日本看護協会)

引用・参考文献:

1)『写真でみる日本近代看護の歴史-先駆者を訪ねて』高橋政子著、医学書院
2)『実地看護法 復刻版』大関和著、医学書院
3)『わが看護人生に悔いなし』加藤光寳著、こすもす
4)『日本の看護のあゆみ 歴史をつくるあなたへ』日本看護歴史学会編、日本看護協会出版会