まだ見ていなかった人にとって「舟を編む ~私、辞書つくります~」(NHK総合)は今夏一番のドラマではないでしょうか。

「まだ見ていなかった」と書いたのは昨年2月18日~4月21日に全10話がNHK BSで放送されていたから。しかも視聴者からの称賛だけでなく、「ギャラクシー賞 第62回テレビ部門 選奨」「ドイツ・ワールドメディアフェスティバル2025 金賞」「東京ドラマアウォード2024 連続ドラマ部門優秀賞」「第40回ATP賞テレビグランプリ ドラマ部門奨励賞」を立て続けに受賞するなど、名作であることに疑いの余地はありません。

ただ、出版社の辞書編集部というなじみの薄い世界の物語だけに、見る前にハードルの高さを感じてしまう人もいるでしょう。そんな「まだ見ていない」という人に向けて、ここまで放送された内容から同作の見どころを掘り下げていきます。


民放ではドラマ化困難な舞台設定

「舟を編む」の原作は2012年に「本屋大賞」を受賞した三浦しをんさんのベストセラー小説であり、2013年に映画化、2016年にアニメ化され、昨年ついにドラマ化されました。

これほどの作品がなかなかドラマ化されなかったのは、民放各局にとって辞書編集部が舞台の物語は視聴率獲得という点で難しいから。また、時間の経過とともにデジタル化がさらに進み、紙の辞書を取り巻く状況も変わるなどドラマ化の難しさは増していました。

令和の今、この作品をもしドラマ化できるとしたらNHK、しかもクオリティーファーストで勝負しやすいBSではないか……。当作はそんな原作ファンの期待に応えるような感がありました。

しかも「~私、辞書作ります~」というサブタイトルの通り、主人公は原作の馬締光也ではなく、ファッション誌から異動してきた岸部みどり。この脚色によって視聴者が主人公と同じ目線から少しずつ辞書や言葉の面白さを知り、没頭していくという新たな魅力が生まれました。

ペーパーレスが進む社会において、分厚い紙の本にびっしり文字が敷き詰められた辞書は、時代に取り残されたように見なされがちな存在。さらに、言葉を大した意図もなく簡略化したり、意味を変えたりが当然のように行われる中、1つ1つの語釈を追求することの必要性はあるのか。そんな向かい風のような状況が、当作を見る上での効果的な前振りとなっています。

そんな偏見や疑念を持たれやすい辞書を作っている人々は、私たちの想像を絶する時間と情熱を辞書に注ぎ込んでいました。しかも彼らは変わり者だけどかわいげがあって、時に気づきを与えてくれる愛すべき人物として描かれています。

そんな彼らはネット上のぼう中傷が社会問題化する今、「言葉は誰かを傷つけるものではなく、誰かとつながるためにあるもの」という原点を思い出させてくれるヒーローなのかもしれません。


第1話冒頭の2分間で視聴者を魅了

ではドラマ「舟を編む」は辞書や言葉のどんな面白さを感じさせているのでしょうか。

まず視聴者を驚かせ、魅了したのは第1話冒頭の約2分間。主人公の岸辺みどり(池田エライザ)が嘆息(嘆いたり感心したりしてため息をつくこと)、ていきゅう(涙を流して泣くこと)、えつ(声を詰まらせて泣くこと)、慟哭どうこく(悲しみのために、声をあげて激しく泣くこと)をする一連のシーンが映されました。

「泣く」という行為をグラデーションのように演じる主演・池田エライザさんの演技が素晴すばらしかったのはもちろんですが、同時に「日本語には単に“泣く”に留まらない微妙なニュアンスを表現するさまざまな言葉がある」という面白さを感じた人は多いでしょう。

みどりは辞書編集部主任の馬締光也(野田洋次郎)や、辞書の監修者で日本語学者の松本朋佑(柴田恭兵)らとの会話を通して、言葉の大切さや危うさに気づいていきました。

なかでも物語が大きく動いたのは「私なんて」の「なんて」という言葉。みどりは松本のアドバイスで「なんて」を辞書で引くと“軽視”という語釈を知り、「ご飯食べる時間なんてないかも」「朝から電話する余裕なんてないからさ」「辞書なんてどれも同じだと思ってた」「あとにして、カメラなんて」などと自分の言葉で周囲の人を傷つけてきたことに気づきました。

その直後、みどりは恋人から別れを切り出されて泣いたあと、馬締に自分なりに考えた「右」の語釈を伝え、照れ隠しで「なんて」という言葉を添えました。さらにそれを聞いた馬締も「なんて素敵すてきな“右”でしょう」とオウム返しのように締めくくる見事な脚本で視聴者の心をつかんだのです。

その後も、第2話では「恋愛」の語釈を通してみどりと恋人の結末、第3話では「遍歴」の語釈を通して元辞書編集部員との途切れない関係性、第4話では「こだわり」の語釈を通して図版を手がける父子の絆、第5話では「からかう」の語釈を通してみどりと母の悲しいすれ違いの終止符を描くなど、言葉と人間ドラマのリンクで感動を誘っています。

ウェブ検索のみではわかり得ない言葉の面白さや奥深さを知る。まるで1つ1つの言葉を覚える喜びを感じていた幼児時代のような発見があり、同時にどこか心地よい懐かしさを感じさせられます。


辞書作りに励む全員が輝いて見える

当作に静かな感動をもたらしているのは、辞書作りに励む人々のしんな姿勢でしょう。

それは彼らが発する「うまくなくていいです。それでも言葉にしてください。今、あなたの中にともっているのは、あなたが言葉にしてくれないと消えてしまう光なんです」「この小さな文字たちはぜんぶ誰かの戦いの結果で、磨いて磨いて磨き抜かれた誰かの思いの結晶で」「われわれは常に冷静で平等な言葉の観察者でなければなりません」などのセリフからもうかがえます。

異動したばかりのみどりに語釈を任せ、書き上げると「とても血の通った語釈」などとたたえる辞書編集部主任・馬締光也。同じくみどりに「辞書は決してあなたをほめもしませんが、決して責めたりもしません。安心して開いてみてください」と声をかけて背中を押す日本語学者・松本朋佑。馬締を辞書編集部に引き入れ、定年退職後も社外編集者として関わる荒木公平(岩松了)。

宣伝マンとして今も馬締らをサポートする元辞書編集部員・西岡正志(向井理)。時に毒舌を炸裂さくれつさせながら力強くチームを引っ張る大学生アルバイト・天童充(前田旺志郎)。一歩引いた位置から寄り添うように編集部員を支える契約社員・佐々木薫(渡辺真起子)。いつも明るく元気で一生懸命な製紙会社の営業マン・宮本慎一郎(矢本悠馬)。

そんなクセ者ぞろいながら人間味にあふれる彼らと接する岸部みどりは“視聴者の分身”のような立ち位置の主人公。辞書への思い入れがない普通のOLで、何気ない言葉で周囲の人を傷つけていた自分を省みるシーンは視聴者の共感を誘いました。馬締らと関わることで言葉に加えて紙にも関心を持ちはじめるなど仕事にのめり込み、地道な努力を重ねる姿は「応援したい主人公」そのものでしょう。

「そんな主人公の何気ない言動が長年、辞書作りに励む人々にヒントを与えていく」という関係性も心地よく、ほぼ登場人物全員が輝いて見えることが支持を集める理由の1つになっています。


静かな感動を呼ぶ「文字」の演出

その他では、「見出し語チェック」「執筆要領」「図版」といった辞書作りの過程やルールを知ることも魅力の1つ。「知らない世界をのぞき見できる」というドラマらしい楽しみがあり、大人の知的好奇心をくすぐられる作品となっています。

もともと当作のような言葉を扱う映像作品は、やりすぎると人間ドラマへの没入感が薄れ、足りないと重要な言葉が流れてしまうなど「演出のさじ加減が難しい」と言われていますが、当作は静かながらも軽さを感じさせる絶妙な塩梅あんばい。特に見出し語や語釈を美しい書体と技術で表示する演出は作品全体の心地よさを感じさせています。

さらに、しりとりは日本語で一番少ない「る」からはじまる言葉で相手を攻めると勝率が上がる。向井理さんが朝ドラ「ゲゲゲの女房」で演じた水木しげるさんについて語るなどのクチコミを誘う小さなトピックスも含め、作品に愛着を持てる要素の多さが際立っています。

そんな素晴らしい原作、脚本、演出、音楽に応えるべく俳優たちも奮闘。池田エライザさんや野田洋次郎さんを筆頭にこれほど視聴者から「ハマリ役」という声があがる作品は珍しく、最終話前あたりには「ロス」の声が飛び交うのではないでしょうか。

コラムニスト、テレビ・ドラマ解説者、タレント専門インタビュアー。雑誌やウェブに月20本以上のコラムを提供するほか、『週刊フジテレビ批評』『どーも、NHK』などに出演。各局の番組に情報提供も行い、取材歴2000人超のタレント専門インタビュアーでもある。全国放送のドラマは毎クール全作品を視聴。著書に『トップ・インタビュアーの「聴き技」84』など。

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