はじめまして。2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」のコラムを担当いたします遠藤珠紀と申します。先日、今年の大河ドラマ「べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜」がついに最終回を迎えましたね。2025年が終わるのは寂しいですが、また新たな大河ドラマが始まるのも楽しみです。

来年の大河ドラマは、*豊臣秀吉の弟・秀長(演:仲野太賀)が主人公です。タイトル通りこの兄弟の波乱万丈な人生を軸にしたドラマになるでしょう。“きょうだい”というと身近な存在ですね(筆者にも弟が一人います)。皆さまの周りにもいろいろなきょうだいがいらっしゃると思います。
「べらぼう」の場合ですと、義兄弟ではありますが蔦重(演:横浜流星)と蔦屋の次郎兵衛(演:中村蒼)、絵師・喜多川歌麿(演:染谷将太)それぞれの仲が描かれていました。また、一橋治済(演:生田斗真)の子である徳川家斉(演:城桧吏)は、なんと53人の子を成した“子だくさん”の将軍でした。成長した子どもたちは全国の大名と縁づきます。この子たちのきょうだい関係は、果たしてどうだったのでしょう。
歴史上の有名人たちにも、さまざまなきょうだいがいました。
豊臣兄弟のように武家政権を打ち立てた偉人たちを見てみますと、鎌倉幕府草創期の源頼朝・義経・全成兄弟、室町幕府草創期の足利尊氏・直義兄弟などが思い浮かびます。彼らは、兄が権力を打ち立てるのに大きな助けとなりましたが、政権が安定してくると関係が悪化し、敵として亡くなることになってしまいました。
こうしたきょうだい間の人間模様は、これまでの大河ドラマや小説でもさまざまに描かれてきました。有能な弟は、権力を打ち立てる過程では心強い分身でしょうが、やがては兄を脅かす危険な存在とみなされるようになるのでしょう。もちろん仲の良いきょうだいも大勢います。
果たして、豊臣兄弟はどうなのでしょうか。
父は天皇、母は公卿の娘!? 秀吉が監修した自身の生い立ち


(東京大学史料編纂所所蔵模本 原本:京都府大徳寺)
上にお示しした肖像画は、秀吉(演:池松壮亮)、秀長どちらも亡くなってすぐに描かれたものですので、実際の面影を伝えているかもしれません。兄秀吉は、こけた頬に、らんらんとした力のある眼が特徴的です。一方、弟の秀長はふっくらしたおとがい(あご)ですが、よく見ると細い目に厳しさをたたえているように感じられますね。
2人の誕生年、誕生日は、はっきりとはわかっていません。兄秀吉は天文6年(1537)生れ、弟秀長は天文9年か10年生れと推測されています。3〜4歳ほどの年の差、比較的年齢の近い兄弟ですね。
また秀吉・秀長には、そのほか姉妹が少なくとも2人居たことも知られています。ドラマでは宮澤エマさん(役名:とも)と倉沢杏菜さん(役名:あさひ)が演じます。秀吉の父は法名「妙雲院栄本」とされていますが、どのような人物かよくわかりません。母はなか(演:坂井真紀)です。秀吉と秀長で父が違う、という説もありますし、同じである、という説もあります。秀吉・秀長の姉妹や家族も歴史上大きな役割を果たします。

両親はとても貧しい階層の人物で、秀吉はそこから天下人にまで成りあがった立志伝中の人物、とのイメージが古くから強くありました。しかし近年では、秀吉の親戚関係を見ると、比較的上層の農民であり、武士としても活動する階層だろうとの説も出されています。出自ははっきりしませんが、父が早くに亡くなったために、兄弟が幼いころは貧しかったのは事実でしょう。
では、本人はどのように言っているでしょうか。ご存じの通り、秀吉はのちに関白になりますが、この時、側近の大村由己に関白任官に関わる記録を書かせました。秀吉は自己プロデュースに意を用いていて、こうした節目ごとに記録を作成させ、人々に見せて宣伝しています。
その中に秀吉の生い立ちも書かれています。秀吉の監修による記録ですので、(事実というより)秀吉が見せたい自らの姿でしょう。内容をご紹介しましょう。
秀吉は丁酉(天文6年、1537年)2月6日生。(中略)祖父母は朝廷に仕え、萩中納言といったが、秀吉の母が3歳の時、讒言により尾張国(現在の愛知県西部)飛保村雲に流罪になった。ある老人が語るには、村雲の在所に都の人がいて、次のような和歌を詠んだという。
ながめやる都の月に村雲のかかるすまゐもうき世なりけり
(遠く眺めやる都の月には村雲がかかって隠れている、村雲にあるこのような住まいも、憂いのある浮世であることよ)
これが萩中納言の歌だろうか。秀吉の母は若い頃に内裏に宮仕えして数年で尾張に戻り、ほどなく子供を産んだ。これが今の関白(秀吉)である。子供の頃より不思議なことが多くある。皇族でなければ、どうしてこのような俊傑があらわれようや。
というような内容です。
父は後奈良天皇、母は公卿(萩中納言)の娘で、自らは貴い生まれなのだとひそかに匂わせていますね。萩中納言なる人物は知られていませんし、疑問の多い内容ですが、この記録で母が「飛保村雲」で幼少期を過ごしたとされているのが注目されます。
現在の愛知県江南市に飛保、村久野という地名があります(記録で村雲としているのは、和歌の表現に合わせたのでしょう)。古くは村久野庄という荘園の中に飛保郷という村がありました。秀吉の監修のもと、わざわざ具体的な地名を挙げていることから、母は実際に村久野庄飛保郷の付近に縁があったのかもしれません。一方父は、影が薄くなっています(もちろん秀吉は天皇のご落胤ではないでしょう)。
秀吉・秀長兄弟の前半生は謎に包まれています。兄秀吉が前代未聞の立身を遂げた一方、その傍らに居た弟秀長の言動を知ることのできる史料はきわめて限られています。しかし先ほどの肖像画の上部に記された賛にも、秀長の意気は鵬のように盛んで、仁徳を備えた忠義の人物であったことが記されています。秀吉が天下人となる背景には、秀長の大きな支えがあったことでしょう。
本コラムでも、秀吉や織田信長など周囲の人々に焦点を当てることが多くなってしまいますが、その陰に隠れた秀長の活動にも想いを馳せていきたいと思います。
豊臣の兄弟姉妹はどのような関係性を築き、どのように育ってきたのでしょうか。新年1月4日の放送が楽しみです。これから1年間、どうぞよろしくお願いいたします。

*注:当時の人の名前には「姓( 氏名) 」と「家名」がありました。姓の場合は、たとえば平清盛を「たいらのきよもり」と呼ぶように、名前との間に「の」が入ります。豊臣兄弟の「豊臣」も姓なので、「とよとみのひでなが」になります。詳しくは彼らが「豊臣」になる時のコラムでご紹介したいと思います。。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。