「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺〜」には歌麿、北尾政演(山東京伝)など、蔦重と関係の深い多数の絵師が登場しました。その中でも、後世にその名を残した最たる人物が葛飾北斎です。
大波を大胆な構図で描いた「神奈川沖波裏」は、世界で最も知られた日本の絵でしょう。
北斎は、「冨嶽三十六景」など、多くの風景画シリーズを手掛けていますが、特に地元、江戸各地の“名所絵”を多く描いており、当時の江戸の様子を今に伝える貴重な史料ともなっています。「『べらぼう』の地を歩く」、最終回は、“北斎が描いた江戸”をテーマに、北斎が風景画を描いた“現場”を巡ります。
※この記事はNHK財団が制作した冊子「べらぼう+千代田区観光協会」のための取材などをもとに構成しています。
北斎が確立した「名所絵」
“名所絵”とは、日本各地の名所を描いた浮世絵のこと。北斎の「冨嶽三十六景」は庶民の間の旅行熱を背景にヒットし、歌川広重の「東海道五拾三次」と並んで、「名所絵」というジャンルを確立したと言われています。
もちろん、気軽に旅行に行ける時代ではありません。こうした「名所絵」を見て、人々は旅情を掻き立てられたり、旅行気分を味わったりしたのです。北斎は大胆な構図や技法で、数々の名所を描き出します。
【冨嶽三十六景「東都駿臺」】
JR御茶ノ水駅をでて、聖橋を渡り、神田川沿いにたつ順天堂大学医学部附属順天堂医院のあたりに来ました。この付近で北斎が描いたのが冨嶽三十六景のひとつ、「東都駿臺」です。

「駿臺」は、現在の千代田区神田駿河台。絵の右奥に富士山が描かれていますが、当時はここから美しい富士山が見えたそうです。青く染められた神田川に沿って行商人、武家の集団など、人々が行きかう様子が生き生きと描かれています。

絵の構図を参考に、文京区本郷「順天堂前」交差点付近の高台から南西方向を眺めてみます。絵に描かれた神田川越しの富士山は、高いビルなどに遮られ、見ることができません。
【九段牛ケ淵】
九段坂と言えば、「九段下交差点」から靖国神社や日本武道館に続く坂道として広く知られています。筆者も武道館で開かれるコンサートを見るために、ドキドキ・ワクワクしながら何度となく、この坂を上ったものです。

江戸時代、坂の上からは、江戸湾はもとより、房総の山々も見渡せたそうです。月見の名所としても知られたそう。いつの時代も人をワクワクさせる坂ですね(笑)。
右側に描かれているのが九段坂。
ちなみに、この絵には、陰影のつけ方や(絵の上部に書かれた)ローマ字のサインなど、絵には西洋画の影響が強く見て取れるとされます。

写真は現在の九段坂。写真左側は武道館がある北の丸公園。松平定信が生まれた「田安家」の屋敷があった場所です。
この付近に「九段牛ケ淵の碑」が設置されています。

「九段牛ケ淵の碑」には“左の崖は上方が千鳥ヶ淵、下は牛ケ淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入口となっている”と書かれています。
描いたのは“若者の街”?
【冨嶽三十六景 隠田の水車】

「隠田の水車」。この絵に描かれたのは隠田村。のどかな農村の景色ですが、実はここ、現在の渋谷区原宿なのです。

写真は、“キャットストリート”と呼ばれる場所。アパレルショップやカフェなどが立ち並び、若者や海外からの観光客などが集まる賑やかな通りです。かつて、このあたりは隠田川と呼ばれた川が流れ、参道橋、隠田橋などの橋がかかっていました。
【冨嶽三十六景 武陽佃島】
佃島は、徳川家康によって移住させられた摂津の佃村(現在の大阪府西淀川区)の漁師たちが島を築造したために、その名がついたといいます。
富士の向こうに広がる夕焼けをバックに、物資を乗せた船や漁船など、さまざまな船が島の周囲を行き来している様子が描かれています。


現在の中央区佃にある佃公園の前から隅田川の大きな流れをのぞみます。写真中央の佃大橋は築地につながります。
【冨嶽三十六景 深川万年橋下】

万年橋(萬年橋とも表記されます)は小名木川が隅田川に合流する地点に架かる橋です。
「きれいな弧を描く橋の下から富士山を望む構図は、北斎が好んだのか、本図が描かれた20~30年前に洋風版画「たかはしのふじ」でも描いています」(すみだ北斎美術館HPより引用)
江戸時代、深川はとても賑やかな場所でした。絵に描かれた橋の上にも、大勢の人々が行きかっています。高い、アーチ状の橋が特徴的ですが、船が航行するのを妨げないようにという配慮だったそうです。

北斎は生涯で93回もの引っ越しを繰り返した“引っ越し魔”であることはよく知られていますが、一時、この近くにも住んだことがあるそうです。

現在の万年橋(江東区)。昭和5年(1930)に架けられたもの。
蔦屋と北斎
吉原の貸本屋からスタートし、念願の日本橋に進出。版元として数々のヒット作をだし、江戸のメディア王となった蔦重こと蔦屋重三郎。彼は多くの才能を見いだした稀代のプロデューサーでした。北斎もそのひとり。北斎が「勝川春朗」を名乗っていたころ、蔦重はその才に注目。吉原で行われるパレード、「俄」を題材にしたシリーズの美人絵や、山東京伝や曲亭馬琴による黄表紙の挿絵などを依頼しています。
その後、蔦重がこの世を去り、蔦屋が二代目になると(※)、北斎は巻末に耕書堂の店先を描いた絵が登場する江戸名所絵本『画本東都遊』などを発刊し、耕書堂の屋台骨を支える絵師のひとりとなります。

歳月は流れ、後世に名を知らしめることになる「冨嶽三十六景」を出版したのは、北斎が数えで75歳のときでした。
(※)番頭の勇助が二代目蔦屋重三郎を名乗ったとされます。蔦屋は五代目まで続きました。
【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda ※ステラnetを離れます
(取材・文:平岡大典[NHK財団])
(写真:[千代田区内各所]Kosuke Kurata)
(取材協力:千代田区観光協会)
主要参考文献:
片山喜康『江戸の名所を巡る 北斎さんぽ』青幻舎
この記事は、NHK財団が制作したPR冊子「『べらぼう』+千代田区観光協会」などのために取材した際の情報などをもとに構成しました。
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