連載「セツと八雲 ゆかりの地を歩く」シリーズのまとめはこちら
出雲時代のなつかしい思い出に、西田千太郎へ
(小泉八雲『東の国から』平井呈一訳より)
これは八雲が来日してからの2つ目の著書『東の国から』の序文。日本で最も信頼を寄せた無二の友人、西田千太郎に捧げられた一文です。ドラマでも錦織がヘブンから贈られた本をめくり序文を見つけて顔を綻ばせていた姿が印象的でした。
西田はドラマに登場する錦織友一のモデル。錦織がリテラシーアシスタントとして友人としてヘブンとトキを支えたように、西田は公私にわたり八雲とセツをサポート。八雲にとって数少ない心許せる友となりました。今回はその旧居を中心に、西田が生まれ育った雑賀、八雲と出かけた寺町や天神町界隈を訪ねます。
松江の大盤石を育てた教育の町・雑賀
西田は文久2(1862)年生まれ。寺田屋騒動や生麦事件が起きて世の中が大きく変わろうとする頃、松江藩士の家に生を受けました。
生家があったのは、松江を二分する大橋川の南、さらに天神川を隔てた南側に位置する雑賀町でした。松江城を築き城下町を開いた堀尾吉晴が足軽鉄砲隊として雑賀衆を住まわせたことが地名の由来。碁盤の目のように路地と水路が設けられ、足軽屋敷が整然と並んでいたとか。今も通りにはその面影が残されています。西田家もまた足軽でした。

雑賀町の家々は藩士としての身分は低いものの、総じて教育熱心。幕末から明治にかけていくつもの私塾が開かれ、松江で最初の小学校が開校したのも雑賀町でした。世の中が大きく変わる時代にあって学問により立身出世を遂げようという若者も多く、後に総理大臣となる若槻禮次郎や“近代スポーツの父”と呼ばれた岸清一を輩出しています。
そんな中にあってとりわけ優秀だったのが西田です。中学在学中は常に首席を通して、ついたあだ名は「大盤石」。ドラマの錦織もそう呼ばれていましたね。


毎日顔を合わせても飽きない! 全幅の信頼をおく相棒
小泉八雲と出会ったのは西田が28歳の時。八雲が不自由なく日々を送れるよう心を砕き、執筆のための取材にも同行、調査研究にも力を尽くしました。
そんな西田を八雲はこんなふうに書き表しています。
西田は、じつに親切な人だ。自分のできることなら何でもして、わたくしを助けてくれているくせに、もっとたくさんのお手伝いができないといって、しじゅう残念がっている。
(小泉八雲『日本瞥見記』「英語教師の日記から」)平井呈一訳より)



2人の親交は公私にわたり、松江では互いの家をさかんに行き来しました。八雲が西田家を初めて訪ねたのは明治23年10月21日。西田の日記に「ヘルン氏ヲ伴ヒ帰リ、酒飯ヲ饗ス。」と記されています。
この日以降、八雲が西田家を訪れた回数は少なくとも30回。病気がちの西田が伏せると1日を置かず見舞いに訪れるほど。ミカンやラムネ、菓子や葡萄酒を携えてやってきたといいます。セツが羊羹を持って訪ねたこともありました。

西田が生まれた雑賀町の家が大火で焼け落ちてしまい、一家で移ってきたのが、隣町・新雑賀町にあるこの家でした。建物は今年で築157年。西田夫妻の部屋だった日当たりの良い6畳間も、西田が書斎にしていた北向きの屋根裏部屋も往時のまま。八雲が西田を訪ねてきた時の姿をとどめています。

八雲と西田が結んでくれたご縁から始まった保存活動と公開
実はこの家の公開がはじまったのはつい最近、2025年10月のことです。私自身、松江で生まれ育った人間として、八雲の友人・西田千太郎のことは知っていましたが、その住まいが今も残っているとは思ってもいませんでした。
そもそもの言い出しっぺはご近所に住む今岡克己さん。30年近く住む人なく荒れていく家を見かねて、県外に住む所有者に連絡をとったのがきっかけだとか。
今岡「それが西田千太郎の曾孫に当たる方。昔この家に住んでいらした上品なご婦人が、“私は不出来な千太郎の孫でございます”とおっしゃっていたのを思い出しました」
町内会で借り受けることになり、家の中に入ってみると雨漏りなどで傷んだものもありましたが、押し入れや屋根裏に古い書物や手紙などがどっさり。ちょうどその頃に知り合ったのが、八雲研究に携わる島根大学准教授の宮澤文雄さんでした。

宮澤「西田の家がどうなっているかを見にきたところでバッタリ出会い、一緒にやりましょうと声をかけていただきました。見つけたのは多くが未発見の資料。八雲と西田の深い関わりを示すものでした。八雲にとって西田は弟と呼べるくらいの存在。改めて関係性の深さに思い至りました」

今岡「西田家の記録も資料として興味深いですね。大黒柱を失ってから家族がどんなふうに暮らし、西田の遺志を守ってきたか。家族の歴史から地域や社会の変化が見えてくるような気がします」


今後の調査によって、新しい発見も期待できるとか。西田の生きた証とも言うべきこの家が未来へ受け継がれていくことを祈らずにはいられませんでした。
市中にひっそりと佇む、西田と八雲の散歩スポットへ
西田千太郎旧居のある雑賀町を中心にした大橋川の南エリアには、八雲とともに訪れた寺社が点在します。いずれも知る人ぞ知る場所ばかりで、観光客の姿は滅多に見かけません。
先にご紹介した洞光寺をはじめ、西田と2人で探検した円城寺の山、演芸場や骨董店を冷やかした白潟天満宮界隈、好んで散歩した寺町一帯……。

中でも寺町の一角に位置する龍昌寺は必見。八雲が好んだ十六羅漢像が今も境内に祀られています。この像は天明6(1786)年に作られたと伝わるもの。それぞれに異なる表情を見つめるうち自然と手を合わせたくなるから不思議です。

また、この寺には、当時八雲と西田が親交を結んだ彫刻家・荒川亀斎による地蔵像があり、これもまた八雲を魅了しました。今境内に佇むのは、その後に作られた2代目の地蔵像。台風で落ちた初代地蔵像の頭部は小泉八雲記念館に収蔵されています。
西田千太郎の葬儀が行われた長満寺
寺町に来たら西田家の墓所がある長満寺にもお詣りしたいもの。ここで執り行われた葬儀には教え子や友人知己をはじめ西田を慕う多くの人が参列しました。西田の父は熊本五高で学ぶ次男・精に当てた手紙の中で“その様子は今まで県知事宅の葬儀でしか見たことがないほどだった”と書いています。

「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆云うてくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」
(小泉節子、小泉一雄『小泉八雲:思い出の記・父「八雲」を憶う』より)
これは、八雲が語った西田の人物像。地域や日本の未来、教育への深い情熱を秘め、驕ることなく、何事にも真摯に向き合った“松江の大盤石”。彼が亡くなった後も、八雲はその面影を忘れたことはなかったのでしょう。セツは『思い出の記』に、早稲田大学の当時の学監の高田早苗が西田に似ていると言って八雲が大層喜んだと書いています。
「今日途中で、西田さんの後姿見ました、私の車急がせました、あの人、西田さんそっくりでした」。
西田に向けた八雲の友情もまた、今も松江の地で生きています。
3月15日は西田の祥月命日。旧居では「千太郎忌」が予定されています。

出典:
小泉八雲『東の国から・心』平井呈一訳 恒文社
小泉節子、小泉一雄『小泉八雲:思い出の記・父「八雲」を憶う』 恒文社
参考文献:
『西田千太郎日記』島根郷土資料刊行会
常松正雄訳、村松真吾編『ラフカディオ・ハーン 西田千太郎 往復書簡』八雲会
八雲会編『へるん今昔』恒文社
梶谷泰之『へるん先生生活記』松江今井書店
ライター・エディター。島根県松江市生まれ。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「神々の国の首都」と呼んで愛した街で、出雲神話と怪談に親しんで育つ。長じてライターとなってからも、取材先で神社仏閣や遺跡を見つけては立ち寄って土地の歴史や文化に親しむ。食と旅、地域をテーマに『BRUTUS』『Casa BRUTUS』『Hanako』などの雑誌やWEB媒体で執筆。