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城は、今もなお、お城山の上に、数百年まえにはじめてここに建てられたままの、巨大な、全体が鉄灰色てっかいしょくの、ものすごい形をして、大小不揃いな石垣の上から巍然ぎぜんと天空にそびえ立っている。

(小泉八雲『日本瞥見べっけん 下』平井呈一訳「神々の国の首都」より)

松江城の天守を、小泉八雲はこんなふうに書き記しました。武士の世が終わってもなお、威儀を正した古武士の風格でそびえる城を、当時の人々はさまざまな思いをもって見上げたのかもしれません。
築城以来400余年にわたり町のシンボルであり続けるお城は、松江を語る上で欠かせない存在。ドラマで母親のフミさんが語った怪談を含め、松江城にまつわる物語をご紹介します。


松江人の誇り 築城時の姿を今に伝える現存天守

築城から壊れることなく現代に姿を残す現存天守は、全国でも12城しか残されていない希少な存在です。慶長16(1611)年に完成した松江城天守も、そのひとつ。近世城郭最盛期を代表する天守として、姫路城(世界文化遺産)、彦根城、犬山城、松本城と並び、国宝に指定されています。

標高29mの亀田山にたつ松江城天守。別名、千鳥城。

八雲も授業の行き帰りや散歩の途中で、この天守を見上げたのでしょう。その姿をかぶとや竜、仏塔に例えています。

 全体が妖怪じみた建物であるうえに、その細部が複雑怪奇に入り組んでいるところは、ちょうど二層、三層、四層もある巨大な仏塔パゴダが、おのれの重みで押しつぶされたとでもいったふうに見える。

4重5階地下1階の木造で、高さは約30m及ぶ。

この松江城を建てたのは堀尾吉晴。織田信長に仕え、豊臣秀吉の配下として各地を転戦した戦国武将です。関ヶ原の戦いで武功をあげた息子・忠氏が出雲・隠岐24万石を拝領し、父子で雲州入り。まずは難攻不落で知られた尼子の居城、月山がっさん富田とだじょう に入りました。しかし月山富田城はあまりに手狭だったため、松江に新たな城と城下町を築きます。

松江城大手前にたつ堀尾吉晴像。吉晴は城普請の名手としても知られている。

その後、堀尾氏は後継ぎを失い3代で改易、次に入封にゅうほうした京極氏も後継ぎなく没します。
その後の1638年に徳川家康の孫である松平直政が入封し、明治維新まで雲州松平家が城の主となりました。

松江城の旧三之丸にたつ松平直政像。モチーフは直政初陣の騎馬姿と言われる。

天守に現れた美女の妖と城主の対決

この直政入封時の怪談として伝えられるのが「このしろやぐら」の話。直政が初めて松江城本丸を見分した時のことと伝わります。
当時の天守は、城主の不在が1年近くに及んだため荒れ果てて、一種の妖気が漂っていたとか。しかし直政は恐れることなく最上階の天狗てんぐの間まで上り詰めました。

天守の階段。棚板は幅が約1.6mで厚さは10㎝ほど。防火や防腐のため桐材が用いられた。
最上階は壁がなく360度を見通せる。敵の襲来をいち早く発見できる望楼型天守で、実戦に即している。

すると、ひとりの美女が忽然こつぜんと現れて「この城はわが城なり」と告げます。しかし直政が臆することなく「このしろが欲しいのなら、漁師に申しつけて進上しましょう」と宍道湖のコノシロを供えると、女は姿をかき消し2度と現れなくなったのだとか。

最上階から南を望む。街並みの向こうに宍道湖、さらに南に中国山地の山並みが見える。

「この城」と魚の「コノシロ」をかけたトンチですが、直政の剛胆ぶりが伝わってくる話です。
諸説ありますが、そのコノシロを供えたとされるのが、天守の東側に位置していた祈祷きとう櫓でした。こうして「このしろ櫓」と呼ばれるようになったは櫓(別名荒神こうじん櫓)は現存せず、あとを示す案内板があるばかりですが、その言い伝えは松江人に脈々と受け継がれています。


盆踊りを禁忌とする人柱伝説と、しゃれこうべのいた井戸の話

ドラマで、フミがトキとヘブンに語った築城時の人柱伝説も、松江人のよく知るところ。石垣を築こうと何度石を積み上げても上手うまくいかない部分があり、人柱を立てることに。折しも盆踊りの時期であり、城下の盆踊り大会でいちばんの踊り手である娘が選ばれて人柱とされたのだとか。ドラマの中でフミがつぶやいた「なんと残酷な、松江の町」の言葉が心に残ります。

八雲は、その後日談を次のように書き残しています。

ところで、城が落成してから、松江の町では女の子は盆踊りをおどってはならぬという禁令を出さなければならなくなった。それは、盆踊りに女の子が踊ると、お城山がかならず揺いで、大きな城が礎から本丸のてっぺんまで揺れるからであった。
 (小泉八雲『日本瞥見記 下』平井呈一訳「神々の国の首都」より)

もうひとつ、築城時の怪談として語り継がれるのが「ギリギリ井戸」の話。やはり積んでも積んでも崩れてしまう石垣があり、霊験あらたかな神職に調査を依頼したところ、石垣の1か所に原因ありとの答えが……。根本を掘り起こしてみるとやりの穂先が刺さったしゃれこうべが現れました。そこで、しゃれこうべを手厚く供養したところ、石垣は無事に積み上がったといいます。さらに掘り起こした場所を深く掘り下げると清らかな水が湧き出しました。この井戸は「ギリギリ井戸」と呼ばれ、重宝されたとか。

ギリギリ井戸の跡。「ギリギリ」は出雲弁でつむじを指す言葉。井戸を掘り下げた形がつむじに似ていることから、その名がついたとされる。今はこの杭が井戸があった場所を示すのみとなっている。

松江城は長らく籠城できるよう城郭内にいくつもの井戸が設けられました。ギリギリ井戸も、そのひとつなのでしょう。
築城の難しさ、実戦に備えた松江城らしさを伝える物語です。

天守地階の井戸。現存天守では唯一のもので、かつては24mの深さがあった。

天守を解体の危機から救った旧藩士の思い

こうした物語を秘めて今に伝わる松江城天守ですが、過去には幾度も消失の危機にひんしました。その最たるものとして松江人に語り継がれるのが明治政府による廃城令です。これは政府が軍用として使う以外は取り壊せという命令。松江城も例に漏れず明治4(1871)年4月には廃城が決まり、明治8(1875)年には入札を開始。180円で落札が決まり、松江城はまさに風前の灯火ともしびでした。

この危機に立ち上がったのが旧松江藩士の高城権八。このままでは旧藩士の心のり所がなくなると、陸軍省広島鎮台に「落札額と同じ金額を納めるから天守だけでも残して欲しい」と懇願。高城の働きかけに応じた地元の豪農・勝部本右衛門父子の尽力もあり、天守は破壊を免れたのだといいます。

この時、城内の櫓や門、御殿など天守以外の建物のほとんどは取り壊されました。
その後、南櫓や太鼓櫓など、いくつかの建物が再建され、今は往年の姿を少しずつ取り戻しつつあります。

藩主の御殿があった三之丸跡を示す石碑。跡地にはいま、島根県庁が建っている。石垣の上に見えるのは再建された南櫓。
松江城は現在、城山公園として市民に親しまれている。桜の名所としても知られる。

ドラマ序盤でつかさすけが途方に暮れた表情で見上げ、トキが長屋を抜け出すことを誓って井戸端から見つめ続けた松江城。さまざまな思いを受けながら移り変わる時代を生き抜いたお城は、今も松江の町を見守り続けています。

出典:
小泉八雲『日本瞥見記 上』平井呈一訳 恒文社

参考文献:
高嶋敏展『松江と小泉八雲:何を見て 何と出会い 何を残したか』八雲会
西島太郎監修『図説 日本の城と城下町⑧ 松江城』創元社
河井忠親『松江城』松江今井書店
島根県教育会『島根県口碑伝説集』歴史図書社

ライター・エディター。島根県松江市生まれ。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「神々の国の首都」と呼んで愛した街で、出雲神話と怪談に親しんで育つ。長じてライターとなってからも、取材先で神社仏閣や遺跡を見つけては立ち寄って土地の歴史や文化に親しむ。食と旅、地域をテーマに『BRUTUS』『Casa BRUTUS』『Hanako』などの雑誌やWEB媒体で執筆。