ドラマで住職が語る怪談に涙したヘブン先生。「カイダン、スバラシ」「カイダン、モット、ホシイ」の言葉に対して「わたし、怪談、よく知る」と伝えるトキの表情が心に残りました。劇中でも描かれているように、怪談はセツと八雲(ラフカディオ・ハーン)を結ぶ大切なピースでした。今回はセツが語った怪談の中でも、我が子を想う母の愛が印象的な“みずあめを買う女”の舞台、だいおうを訪ねます。


城下の賑わいから離れた境界の地に立つ、初代藩主ゆかりの寺

「松江城下絵図(天保年間1830-1843年) 」(松江歴史館所蔵)。朱色の部分が松江城。その西側を南に向かって流れるのが四十間堀。堀が宍道湖に注ぐ辺りの西側に“土手町”や“大雄寺”の文字が見える。(※加筆・加工は編集部)

大雄寺が位置するのは松江城の南西、城の外堀にあたる四十間しじゅっけんぼりのさらに外側、中原町です。今でこそ周囲には住宅やマンションが建ち並びますが、かつては田んぼや畑が広がっていました。

大雄寺前を通る道路は通称“土手通り”。かつては、このすぐ南側が宍道湖だったが、埋め立てにより水際はずいぶん遠くなった。手前は、子を持つ母が母乳の出が良くなるよう祈った乳出ちちで地蔵じぞう

また寺の前を通る道路は、かつての土手道。今のように埋め立てられる以前、土手のすぐ向こうが宍道湖でした。いわば街と郊外の境目であり、陸と水の境目。江戸や明治の昔にあっては、人間よりも自然の気配の濃い場所だったに違いありません。

藩主が出入りした山門。石垣を積み上げた珍しい造り。

大雄寺は慶長14(1609)年、堀尾氏による松江城の築城と松江藩開府に伴い、松江のお隣、今の安来市広瀬町にあった月山富田がっさんとだじょう下からこの地に移転してきました。やがて藩主として松江入りした、徳川家康の孫・松平直政は、和歌や漢詩に秀でた当時の住職を気に入り、行き来するようになりました。直政は住職を城に招くだけでなく、四十間堀を船で下って大雄寺を訪ねたのだと伝わります。

山門の扉の欄間には菊水の紋が透かし彫りになっている。

その際、藩主が出入りするために作られたのが山門。石垣を積み上げた珍しいつくりで、扉の欄間には菊水の紋が透かし彫りになっています。山門前を流れる川は、かつては船が行き来できるほどの幅があり、境内の西には“船回し”や“船だまり”という字名あざなが残っていました。


4歳で生き別れた八雲の母、ローザの面影を怪談に見る

松江ゴーストツアーの目的地にもなっている御本堂。

セツは幼い頃、内濠うちぼりの近くにあった屋敷からこの界隈かいわいに一時期移り住んでおり、大雄寺に伝わる怪談も身近なものだったのでしょう。

かつて屋根に上がっていた宝玉をくわえる鯱鉾しゃちほこが堂内に保存されている。

“水飴を買う女”は、我が子を宿したまま亡くなった母が葬られてから出産し、幽霊と化して水飴を買って子どもを育てる話です。

水飴は、麦芽からつくった琥珀こはく色の糖蜜で、当時は母乳に恵まれない親が乳児に与えるものでした。その水飴を商う飴屋に毎夜、青ざめた顔色の、痩せた女が現れます。女が買うのは、わずか一厘分の水飴だけ。不思議に思った飴屋は女の後をつけてみますが、その姿は墓地に入っていきました。

次の晩も女は飴屋を訪れますが、この日は飴を買うことなく、自分と一緒に来るよう手招きします。友だちと一緒になってついていくと、女の姿はある墓の前でかき消えました。すると、墓の下から赤子の泣き声が聞こえ……。

墓のなかには、毎夜水飴を買いにきた女のむくろがあって、そのそばに、生きている赤児あかごがひとり、さし出した提灯ちょうちんの火をみて、にこにこ笑っていた。そして、赤児のそばには、水飴を入れた小さな茶わんがおいてあった。この母親は、まだほんとに冷たくならないうちに葬られたために、墓の中で赤児が生まれ、そのために、母親の幽霊が、ああして水飴で子供を養っていたのである。———母の愛は、死よりも強いのである。

(小泉八雲『日本にほん瞥見べっけん 上』平井呈一訳「神々の国の首都」より)

子育て幽霊の話は日本各地に伝わっており、麦芽で仕込んだ水飴を今も「子育飴」の名で受け継ぐ作り手がいる。ただ、大雄寺のある中原町には、怪談に登場する飴屋は現存していない。

松江に伝わる話では、墓の中で生まれた子どもは市内のある家にもらわれて、幸せに暮らしたとされますが、八雲はそのくだりを書いていません。セツと八雲夫妻のひ孫で小泉八雲記念館館長の小泉凡さんは「えてそのくだりを省いたのだろう」と著作に記しています。

母ローザとの生き別れの過去と母への哀惜の気持ちを再話に反映させて、「母の愛は死よりも強い」で結んだのだろう。言い換えれば、この一行こそハーンが大雄寺の怪談から受け取った強いメッセージだ。

 (小泉凡『怪談四代記 八雲のいたずら』より)

八雲はギリシャ・イオニア海に浮かぶレフカダ島に生まれ、母とともにアイルランドへ。4歳の時に母は1人でギリシャへ戻り、残された八雲は高齢の大叔母に育てられました。軍医であった父は、八雲との時間を持つことはほぼありませんでした。その後、フランス・ノルマンディーやイギリスのカトリック系の学校に学ぶものの、大叔母の破産により中退。新天地を求めて渡ったアメリカでも孤独の中、居場所を転々とします。

心のどころとなるはずの両親からの愛情や、安心して背中を預けられる家族を手にすることのないまま、海を渡り異なる文化をもつ土地へと彷徨さまよう半生。セツと家庭を築くまで、漂泊の人・八雲は、心のどこかに寄る辺のない心細さを抱えていたようにも思われます。

彷徨う人の哀愁を感じさせる八雲の後ろ姿。来日に同行した挿絵画家・ウェルドンのイラストを題材にしたレリーフで、松江市中心部のカラコロ広場にある。

ドラマでもヘブン先生は自らを「トオリスガリ、ノ、イジン」と言い、人と深く関わることを避け、通りすがりの人間として生きていくことを決めたと語っていましたが、その裏には肉親との縁薄く育った生い立ちがあったのでしょう。その分、母から子への無償の愛を語った怪談は深く心に刻まれたに違いありません。


セツは八雲との日々をつづった『思い出の記』に、昔話を語るにあたって八雲にこう言われたと記しています。

「本を見る、いけません。ただあなたの話、あなたの言葉、あなたの考えでなければいけません」

ドラマでもヘブン先生がトキに向かってかけた言葉です。これから松江の地で、トキがどんなふうに、どんな怪談を語るのか期待が膨らみます。次回もどうぞ、お楽しみに。

出典:
小泉八雲『日本瞥見記 上』「神々の国の首都」平井呈一訳 恒文社
小泉凡『怪談四代記 八雲のいたずら』講談社
小泉節子、小泉一雄『小泉八雲:思い出の記・父「八雲」を憶う』恒文社

参考文献:
『水と歴史のまち城西』松江市城西公民館
小泉凡・渡辺亮『小泉八雲の怪談づくし』八雲会

ライター・エディター。島根県松江市生まれ。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「神々の国の首都」と呼んで愛した街で、出雲神話と怪談に親しんで育つ。長じてライターとなってからも、取材先で神社仏閣や遺跡を見つけては立ち寄って土地の歴史や文化に親しむ。食と旅、地域をテーマに『BRUTUS』『Casa BRUTUS』『Hanako』などの雑誌やWEB媒体で執筆。