歌手として55周年を迎えた野口五郎さん(70歳)。幼いころから音楽が大好きで、さまざまなジャンルに触れてきました。それらが“クロスオーバー(融合)”し、野口さんの音楽を発展させてきたといいます。
聞き手 徳田章
この記事は月刊誌『ラジオ深夜便』2026年4月号(3/18発売)より抜粋して紹介しています。
小学校にもギターを持って
――野口さんは岐阜県ご出身。小さいときに歌番組で優勝なさったこともあるとか。やはり昔から歌がお好きだったのですか。
野口 はい。楽器にも興味があって、幼稚園の年長からウクレレを、小学校の1年生からはギターを始めました。周りにギターを弾いている人もいなかったので、テレビから流れてくる歌が僕にとっての教科書でした。とにかく聴いて、弾いて覚える。時代的に自分で開拓するしかなかったんですね。
小学校にもギターを風呂敷に包んで背負って通っていました。学校で弾くとみんなが寄ってくるので、担任の先生の許可をもらって職員室で弾いていて。すると先生から「『影を慕いて』が聴きたいな」とかリクエストされるので、家で親に聞いて耳で覚えて弾くんです。すると今度はほかの先生に「湯の町エレジー」などと言われ、だんだん演歌を覚えていきました。そのうちにベンチャーズとかのブームがきて、ロックにも興味を持ち始めましたね。
――小学生で、作曲家の米山正夫さんの門下生になったそうですね。
野口 5年生のときテレビで美空ひばりさんの「リンゴ追分」を聴いて心震えて。ひばりさんはもちろん、曲を作った米山正夫先生という人に会いたくなったんです。先生が審査員をしていたオーディション番組を受けに行って父に仲良くなってもらい、頼み込んで門下生にしていただきました。
デビューの道を閉ざした変声期
――中2で歌手になるために上京されたとか。
野口 はい。曲も出来上がってデビューすることになり、13歳のとき親に頼んで、2年間という約束で母と一緒に東京のおじの印刷工場に下宿させてもらいました。やっぱり東京に行くのは勇気がいったのですが、中学校の担任の先生の「頑張ってこい」というひと言に背中を押されまして。ただ友達が田んぼのあぜ道を走って僕の乗った電車を追っかけてくる姿を見ると、すごくつらかった。でも「故郷に錦を飾れ」とか「売れるまで帰ってくるな」とか寄せ書きをしてもらったハンカチを握りしめて、頑張ろうと思ったんです。
――中学生の野口さんなりの覚悟があったわけですね。
そうです。ところが上京して米山先生にご挨拶に行き、レコーディングに備えてちょっとレッスンしてみようかって歌ったら、声が出なかったんですよ。ちょうど変声期になったんです。
※この記事は2025年10月19日、20日放送「芸の道 輝きつづけて」を再構成したものです。
演歌歌手としてのデビューからポップス歌手への転向、“新御三家”と呼ばれた当時の思い、そして多くの名曲を共に生み出した筒美京平先生との思い出――。俳優としても活躍を続ける野口さんのお話の続きは、月刊誌『ラジオ深夜便』4月号をご覧ください。

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