永禄3年(1560)5月19日明け方、今川いまがわ義元よしもと(演:大鶴義丹)軍の行動に関する知らせが清須きよすじょう織田おだ信長のぶなが(演:小栗旬)のもとに届きました。

その時の光景は、信長の家臣太田おおた牛一ぎゅういち著『信長記しんちょうき』(陽明ようめい文庫ぶんこ本)に次のように記されています(現代語要約)。

まず18日夕方に、今川方の大高おおだかじょう(現在の名古屋市緑区に所在)に兵粮ひょうろうが入り、翌朝にはいくさになりそうだとの知らせが届いた。しかし信長は、戦の話はせず、あれこれとおしゃべりをし、夜も更けたので、重臣たちには帰るように言った。非常時なのに、と重臣たちはあきれて帰ってしまった。

夜明けごろ、予想通り丸根まるね鷲津わしづ砦(いずれも現在の名古屋市緑区に所在)で戦いが勃発したとの知らせが届いた。すると信長の態度は一変する。「人間じんかん五十年、下天げてんの内をくらぶればゆめまぼろしのごとくなり、一度生をうけて滅せぬもののあるべきか」と幸若舞こうわかまいの「敦盛あつもり」をひとさし舞うと、「ほら貝を吹け! よろいを持て!」と命じ、立ったまま食事をかきこみ、怒涛どとうのごとく出陣していったという。

幸若舞とは、物語を舞いながら語る、当時流行の芸能です。その中で「敦盛」は、『平家物語』に出てくる平氏の貴公子・たいらの敦盛と源氏方の武士・熊谷くまがい直実なおざねのエピソードに基づく曲です。

長い曲ですが、信長が舞った一節は、若い敦盛を心ならずも討ち取った直実が、世をはかなみ、出家を決意するくだりに出てきます(幸若舞は能とは別の芸能で、曲の内容も能とは異なり、この一節は幸若舞にのみ見られるものです)。人の世の50年は、天上界ではわずかな時間に過ぎず夢幻のようだ、生まれてきて滅びないものはない(ゆえに出家しよう)、というような内容です。

出陣に際してこの舞を舞った信長の心境(あるいはあえてそうした場面を記述した太田牛一の意図)はどのようなものだったのでしょうか。

信長と「敦盛」の関係は、『信長記』の少し前の段でわざわざ説明されています。甲斐かい武田たけだ信玄しんげん(演:髙嶋政伸)が天永寺(現在の名古屋市北区に所在)の僧・天沢てんたくに信長について尋ねました(ただしこの寺は天正9年[1581]に天沢が再興したと伝えられていますので、実際にはこの時、天永寺はないはずです)。

天沢はいろいろ語る中で、信長は幸若舞の中で「敦盛」のみを舞い、特にこの「人間五十年~」の一節を口癖のようにしていたと述べます。また「死なふは一定いちじょう しのび草には何をしよぞ 一定かたりのこすよの(人は必ず死ぬものだ 後に私をしのぶ形見として何をしようか 必ず語り継がれるような) 」という小歌こうたを好んでいたとも述べています。

いずれも人の世のはかなさをうたっていますが、信長にとっては「なればこそ」と思い切った決断をする助けとなったのでしょうか。

ドラマでは、小一郎こいちろう(のちの豊臣とよとみの秀長ひでなが 演:仲野太賀)・藤吉郎とうきちろう(のちの豊臣秀吉ひでよし 演:池松壮亮)兄弟が、この信長の出陣に従いつつも、父の敵と目する城戸きど小左衛門こざえもん(演:加治将樹)を狙っていました。小左衛門は、『信長記』には信長側近の六人衆の一人、やりの名手として一度だけ登場する人物です(豊臣兄弟の父の敵というのはドラマ上の設定と思われます)。

義元は信長との“格の違い”をアピールしたかった?

信長が出陣した時、義元は桶狭間おけはざまに陣を置いていました。従来この戦いは、油断した今川軍を信長軍が急襲し、義元が討ち取られた、と捉えられていました。信長による鮮やかな奇襲作戦の代表とされる戦いです。しかし、本当に奇襲だったのか、そうではなく正面攻撃だったのか、義元はどこにいたのか、などなど、この戦いについてはさまざまな議論があります。

このコラムでは義元の乗り物に注目してみましょう。ドラマでもお気づきになったでしょうか。義元は馬ではなく、塗輿ぬりごしという漆塗りの輿に乗っていました。豪奢ごうしゃですが、戦場にふさわしい乗り物とはいえませんね。

今川義元といいますと、かつては武士らしからぬ公家趣味の大名とのイメージがあり、塗輿を用いていたこともその一つのあらわれと考えられていました。馬にも乗れない人物として描かれることさえありました。

しかし義元が塗輿に乗っていたのは、意図的な戦略かもしれません。

塗輿はただの乗り物ではありません。武士にとっては、将軍から塗輿御免ごめんという特別な許可を得た人物だけが乗ることができる特別なものでした。戦国大名では、越前の朝倉あさくら孝景たかかげ義景よしかげ[演:鶴見辰吾]の父)や越後の上杉うえすぎ謙信けんしん、大和の松永まつなが久秀ひさひで(演:竹中直人)らの有力者が将軍から塗輿を許されていました。孝景はこのお礼として、将軍に太刀一腰、馬一ひき、さらに銭一万疋(現代のお金で千数百万円以上か?)という莫大ばくだいな額を献上しています。それだけの価値のある名誉だったのでしょう。

そして義元が塗輿を許されたのは、ちょうどこの出陣の頃ではないかと指摘されています。義元が塗輿に乗っていることは、道中人々の目にもはっきりと見えます。他方の信長はもちろん使用を許されていません。今川の領民、そして織田との勢力境界付近の人々に、義元は将軍に塗輿を許された特別な人物なのだ、とのアピール効果を狙ったのではないでしょうか。

そういう目で見ると、義元の狙いの一つとして、今川の勢力範囲、そして織田との勢力境界の地域を塗輿で行軍することで、自らの権威を見せつけるパフォーマンスがあったとも考えられます。

しかし、それが油断にもつながったのでしょうか。義元は、信長自ら陣頭指揮を執って攻め込んできた織田軍に討たれます。数え42歳の若さでした。「今川義元の塗輿も捨て崩れ逃げけり」(『信長公記』 )と、今川軍は名誉の証しの塗輿さえ放り捨てて敗走していきました。直前まで降っていた雨によるぬかるみで、塗輿はおそらく泥まみれになったことでしょう。

愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。