1973(昭和48)年の歌手デビュー以来、ワイドショーの司会や数々の映像作品、舞台への出演など多彩な活動を続けてきたさわ亜矢子あやこさん(76歳)。自らを「体験主義者」と語るように、人生の岐路では何事にもまず飛び込んでみる姿勢を貫いてきました。デビュー50周年を迎え、昨年は音楽CDを自主制作。70代にして新たな挑戦を続けています。

聞き手 大倉順憲

この記事は月刊誌『ラジオ深夜便』2025年9月号(8/18発売)より抜粋して紹介しています。


笑顔は幸せを生むツール

──いつお会いしてもお元気ですが、元気の秘けつはあるのでしょうか。

沢田 気を付けていることといえば、なるべくたくさんの方とお話しすることかな。人が好きなんですね。自分から話しかけて、一人で突っ込んで、オチを見つけて、ケラケラ笑っています。

──どなたとお話しされるのですか。

沢田 近所のスーパーやコンビニ、クリーニング店、カラオケ店の店員の方やお客様まで、もう人間であれば(笑)誰彼構わず話しかけます。

──いい健康法ですね。お金もかかりません。

沢田 自分が暗い目をしていると、相手も暗い気持ちにさせてしまうんですね。だから、どんなときもどんな人にも、相手の目を見てにっこり笑う。そうするとお互い心の垣根が取り払われる気がします。「笑顔が私にとって幸せを生むツールになる」と思って、知らない方でも話しかけるようにしています。


体験から作られる私の人生

──朝のワイドショー「ルックルックこんにちは」(1979年・日本テレビ系)の司会をされました。

沢田 番組のプロデューサーさんが「司会はしゃべらないほうがいい」とおっしゃるのです。司会がしゃべりすぎると、番組はよくならないというのがその方の持論。私はなまりがあることもあって、なるべくしゃべらないように下を向いて、時々ニッコリ笑っていただけでしたが、それがよかったみたい。メインキャスターのくせに、時間を見てきれいにまとめることもできない。朝なのに「皆さん、おやすみなさい」と言ってしまったこともあります(笑)。

──逆にそれが功を奏したのでしょうか。ありのままなところが。

沢田 そのプロデューサーさんに「カバーガールではないのだから、服装は派手にするな。笑顔を作る必要もない。アメリカのキャスターを見てみろ。みんなキリッとしているだろう」と言われたことを覚えています。メインはゲストやリポーターの皆さん。私はただの進行役だと心に刻みつけていました。

──何年間担当されたのですか?

沢田 1984年まで5年半、無遅刻無欠勤です。この仕事がなくなったら、路頭に迷うと思っていたから必死でした。視聴率が悪いともうおしまいかと、1日の中で天国と地獄を行ったり来たり。

※この記事は2025年5月30日放送「75歳からの挑戦」を再構成したものです。


音大時代に芸能界デビューをしたきっかけ、森光子さんとの出会い、そして音楽CDの自主制作など新たな挑戦を続けている沢田さんのお話の続きは、月刊誌『ラジオ深夜便』9月号をご覧ください。

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