
昭和の“爆笑王”としてお茶の間に愛された落語家・初代林家三平さん。歌いながら全身で笑いを生み出す独自の芸風は、高座だけでなく、テレビやラジオでも大人気となりました。1980(昭和55)年に54歳の若さで亡くなってから45年。2025年に生誕から100年を迎え、今なお愛される三平さんの思い出を、次男の二代林家三平さんが語ります。
聞き手 迎康子
この記事は月刊誌『ラジオ深夜便』2026年1月号(12/18発売)より抜粋して紹介しています。
死の床で「加山雄三です」
――初代林家三平さんは、若いころのお写真を見ると凜々しくてダンディーですね。
三平 そうですね。噺家といえば、羽織に着物で扇子を持って正座をしている姿を想像される方が多いと思いますが、父は一般的な落語家のイメージとは全く違っていました。
私の記憶に残っているのは、いつも紺色のスーツを着ている父の姿。中が赤い裏地の、石原裕次郎さんが着ていらっしゃったようなかっこいいスーツで、銀座であつらえた質のいいものを着ていました。あのもじゃもじゃ頭もね、実は天然パーマで。ヘアスタイルはいつも自分でセットしていました。
――お父様が亡くなられたときはおいくつだったんですか。
三平 9つです。息を引き取る数時間前まで一緒にいたので、父が亡くなった実感がありませんでした。病床でお医者様が意識が混濁した父に「三平さん、ご自分の名前を言ってください」と声をかけたら「加山雄三です」と言ったという話が都市伝説のように語り継がれていますが、あれ本当なんです。最期まで人を笑わせようとしていた父でしたね。
「人間は笑われるんじゃない。笑わせることが私たちの仕事だ」と父はよく言ってました。若いときは、寝る間も惜しんでネタを作っていたそうで、「3時間しか寝ていないのは私とナポレオンぐらいだ」って(笑)。
私だけが知っていた手の冷たさ
――特に印象深いお父様とのエピソードって何でしょう。
三平 私と兄の正蔵(九代林家正蔵)は、よく父に東宝名人会という寄席に連れていかれ、舞台袖で高座の父の姿を見ていました。
東宝名人会は楽屋から舞台袖まで距離がありまして。そこを父と手をつないで歩くんですけど、高座が近づくにつれて父の手がどんどん冷たくなっていくんです。当時は「お父さん、なんでこんなに手が冷たくなるんだろう?」と思っていましたが自分が噺家になって最近ようやくその理由が分かりました。今までの高座よりいいものをやろうとすると緊張して手が冷たくなるんです。笑いの天才と呼ばれた父ですら、高座に上がるたびに緊張していた。前座さんもスタッフも誰も知らない。手をつないだ私だけが知っていることです。それは、よりよい芸をご覧いただきたいというサービス精神の表れだったんですよね。

【プロフィール】
はやしや・さんぺい
初代林家三平の次男。現在、二代林家三平として、寄席のほか、農業や能登の復興などさまざまな分野で活躍している。
※この記事は2025年9月30日放送「初代林家三平」を再構成したものです。
父との忘れられない思い出や、人生観を大きく変えた父の戦争体験、「お客様に笑ってもらうためなら何でもする父だった」と語る三平さんのお話の続きは、月刊誌『ラジオ深夜便』1月号をご覧ください。

購入・定期購読はこちら
1月号のおすすめ記事👇
▼二代三平が語る 昭和の“爆笑王”初代林家三平
▼江上剛 井伏鱒二との出会いが導いた作家への道
▼沖幸子 “そこそこキレイ”で快適生活
▼石川・七尾の誇り 伝統の花嫁のれん ほか