
昨年、芸能生活55周年を迎えた小柳ルミ子さん(73歳)。18歳のとき、「わたしの城下町」でデビューして以来、歌と踊りを融合したパフォーマンスと存在感あふれる演技で、見る者を魅了してきました。共演の多かった志村けんさんへの思いや、一度引退を決意しながらも思いとどまったエピソードも明かされます。
聞き手 徳田章
この記事は月刊誌『ラジオ深夜便』2026年2月号(1/16発売)より抜粋して紹介しています。
芸能プロダクションにじか談判
――2025(令和7)年でデビュー55周年。芸の道に進むため、少女時代から習い事をいろいろされてきたとか。
小柳 母に言われて、3歳からクラシックバレエを始め、小学校に入ってからはピアノ、歌、ジャズダンス、タップダンス、日本舞踊、三味線に習字まで合計8つも習い事をしていました。将来自分が何をしたいかもまだ分からない年齢ですが、人前で歌うと、周囲の大人たちが博多弁で「上手か、ルミ子ちゃん!」と褒めてくれるのがうれしくて。だんだんと歌や踊りで表現することが好きになっていきましたね。
――中学校卒業後は宝塚音楽学校に。
小柳 母は名プロデューサーでしたから、芸を学べる宝塚音楽学校へ行けと願書を持ってきました。15歳で親元を離れたので、入学後は寂しくてホームシックになり、毎晩枕を涙でぬらしていましたね。
――それでも単身で東京の芸能プロダクションに売り込みに行ったそうで。
小柳 怖いもの知らずというか、夏休みを利用して東京の渡辺プロダクションにじか談判に行きました。宝塚音楽学校の予科生でまだ16歳でした。社長の渡辺晋さんに向かって「私を歌手にしてください。ここに入れてください」って言ったんです。そうしたら「じゃあ、宝塚音楽学校を一番で卒業したら考えてあげよう」とおっしゃった。追い返すための方便だったんでしょうが、成績はすでに学校でトップだったので「このまま頑張れば歌手になれる」と思いましたね。首席で卒業し、宝塚歌劇団に入団。大阪万博が開催された1970(昭和45)年に初舞台を踏んだのですが、すぐに宝塚歌劇団を辞めたんです。
――首席のトップスター候補生が入団早々に辞めるなんて、騒ぎになったのでは?
小柳 ずいぶんと止めていただいたけれど、もうそのときは歌手になると決めていたので。母と2人、宝塚大劇場から駅までの「花のみち」を歩きながら夢を語り合いました。
――歌手デビューする前にNHK連続テレビ小説「虹」(1970年)に出演されました。
小柳 まずは朝ドラで顔と名前を覚えていただこうという会社の戦略でした。でも宝塚歌劇の舞台に立ったことはあっても、カメラの前でのお芝居は未経験。私、福岡の生まれだから標準語を身につけるのにも苦労しました。NHKのアナウンサーが使う『アクセント辞典』を買って必死に勉強したんですが、撮影に行くのが憂うつなときもありましたね。このドラマの撮影中にデビュー曲が出来上がってきました。
受話器越しの母の泣き声
――それが「わたしの城下町」。
小柳 マネージャーが「ルミ子、できたぞ!」って楽屋に入ってきた光景を今でもよく覚えています。タイトルも歌詞もまだなく、平尾昌晃さんが作曲された音符だけが並んでいる状態。「島原の子守唄風」と書いてありました。「♪ド・ミ・ミ・ド・ミ」という歌い出しで涙が止まらなくなって、楽屋の片隅にあったピンク電話から母に電話して、歌ってあげたんです。受話器の向こうの母の泣き声が今でも鮮明に耳に残っています。
※この記事は2025年9月21日、22日放送「芸の道 輝きつづけて」を再構成したものです。
大ヒット曲『瀬戸の花嫁』誕生秘話、映画『白蛇抄』出演への覚悟、盟友・志村けんさんへの思いなど、小柳さんのお話の続きは、月刊誌『ラジオ深夜便』2月号をご覧ください。

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