小説『非情銀行』でデビューし、銀行員から小説家に転身した江上剛さん(71歳)。江上さんが師と仰ぐのは『山椒魚』『黒い雨』で知られる昭和の文豪・井伏鱒二です。祖父と孫ほど年の離れた2人の関係は、まだ学生だった江上さんがかけた1本の電話から始まりました。
聞き手 山下信
この記事は月刊誌『ラジオ深夜便』2026年1月号(12/18発売)より抜粋して紹介しています。
今からお伺いしてよろしいでしょうか
――江上さんが井伏鱒二と初めて会ったのは。
江上 早稲田大学1年の1972(昭和47)年、ゼミで作家論の課題が出ました。昔からファンだった井伏先生のことを書こうと思い、公衆電話で先生のお宅へ電話しました。
――いきなりですか。
江上 はい。当時は電話帳に番号が載っていたんですね。先生が電話口に出られたので、「早稲田の小畠(江上さんの本名)と申します。今からお伺いしてよろしいでしょうか」って。「おお、すぐ来なさい」と言われて、そのまま東京・荻窪のご自宅まで行ったんです。
――気持ちが通じましたね!
江上 いやいや、驚きですよね。よく考えたら文化勲章を受章した大作家です。「白亜の豪邸だったら気後れするなあ」と心配しながら、たぶんジーパン姿だったと思いますが、ご自宅へ向かいました。そうしたら簡素な平屋で、庭も自然で、ベンガラ色の門があって。何よりも驚いたのは表札でした。名刺の裏に先生の丸い字で「井伏」と書いて画びょうで留めてあったんです。それを見て「おっと、これはいいぞ」と思いました。ガラガラと玄関の引き戸を開けて「すいません、電話した者です」と言ったら、すぐ先生が出てこられて「おお、上がれ、上がれ」。こんな調子だったんですよ。それで、出前の鰻を取ってくれましてね。まともな飯なんか食ったことのない学生にね。それからウイスキー、“ジョニ黒”ですよ。「ウイスキーってこんなにうまいんだ!」とうれしかったです。
――未成年に高級ウイスキーですか! もう時効ですが(笑)。
江上 あとで論文を書くために先生の声をテープに録ろうとしたら、「声は録らないでく
れよ」と。先生は「学生が家に来たのは太宰(治)以来だ」ともおっしゃっていました。僕
のような無手勝流の人間が訪ねてくるのは珍しかったんでしょうね。おもしろかったのが、問わず語りで「書きたくて書いているんじゃない、身過ぎ世過ぎで書いてるんだ」とか、「原稿料が上がんないんだよな」なんて言うんです。
――ざっくばらんですね。
江上 驚きますよね。文豪が、初対面の18歳の学生にそんな話をされたんですよ。
※この記事は2025年9月15日放送「作家・井伏鱒二を語る」を再構成したものです。
「小説家になったのも先生との出会いに導かれた」と語る江上さん。文豪とのぜいたくな交流話など、お話の続きは、月刊誌『ラジオ深夜便』1月号をご覧ください。

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