今回の“*東洲斎とうしゅうさい写楽しゃらく”登場のストーリーはいかがでしたか。長く「謎の浮世絵師」としてイメージされてきた写楽をどう描くかは、エンターテインメント作品であるこのドラマの見どころの一つでした。ここでは最新の研究成果も知りたいという方のために、写楽について現在わかっていることをお伝えしておきましょう。

「謎の浮世絵師」とされてきた写楽も、近年では能役者斎藤さいとう十郎兵衛じゅうろべえ(1763〜1820)説が定着してきています。この説については、主に次の資料が知られています。

(1)斎藤月岑げっしん (1804〜78) 天保15年(1844)『増補浮世絵類考』
「写楽 天明寛政てんめいかんせい年中ノ人 俗称斎藤十郎兵衛 居江戸八丁堀に住す 阿波候あわこうの能役者也 
 号 東洲斎」

(2)達磨屋だるまや五一ごいち(1817〜68)旧蔵 『浮世絵類考』
「写楽は阿州候のにて俗称を斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎えいしょうさい長喜ちょうき老人の話なり」

(3)瀬川富三郎 編『諸家人名 江戸方角分しょかじんめい えどほうがくわけ』(文政元[1818]年写) 「八丁堀」の項目
「号写楽斎 地蔵橋」

(4)法光寺ほうこうじ(現 越谷市)の十郎兵衛の過去帳
「釈大乗院覚雲居士 八町堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十郎兵衛事 行年五十八歳 千住にて
 火葬 文政ぶんせい庚辰かのえたつ年 三月七日」

それぞれの情報をまとめると、写楽は斎藤十郎兵衛といい、徳島藩(阿波国)に属する士分の身であり能役者で、八丁堀地蔵橋に住んでいた。文政3年に58歳で亡くなったということになります。(2)に登場する栄松斎長喜は、蔦屋つたや重三郎じゅうざぶろう(演:横浜流星)が喜多川きたがわ歌麿うたまろ(演:染谷将太)の次に重用した美人画の絵師ですから、信憑性しんぴょうせいがあります。

瀬川富三郎 編『諸家人名 江戸方角分』(文政元[1818]年写)  国立国会図書館デジタルコレクションより転載
編者は三代目瀬川富三郎とされる。写楽の時代は初代。1000人以上の文化人を地域別に挙げた人名録で、「号寫楽齊」「地蔵橋」と記される。×印は浮世絵師、カギ印は故(古)人を示す。すでに詳細不明な人物だったのか情報は少ない。国会図書館所蔵本は大田南畝旧蔵の写本で、最後に「文政元年七月五日竹本氏写来 七十翁 蜀山人」と書き入れがある。
※色線は編集部

無名の新人絵師・東洲斎写楽、破格の待遇でデビュー

寛政5年(1793)、寛政改革の影響で芝居町の不景気も極まり、江戸三座(中村座、市村座、森田座)がすべて経営破綻に陥りました。芝居小屋が営業できない状態に陥るということは、上演の予定もたたず、役者絵を出そうにも情報はなく、錦絵業界も不満を募らせていたことでしょう。

同年7月に松平まつだいら定信さだのぶ(演:井上祐貴)が失脚したこともあり、この風向きが変わります。翌6年(1794)、江戸三座に代わって営業を許された「控えやぐら 」と呼ばれる都・桐・河原崎の三座が、満を持して上演を決定。これにより、歌舞伎ファンはもちろん喜び、役者絵を出版する版元たちも、意欲的に役者絵を企画したと思われます。

蔦重の“写楽”出版とは、まさにそのような年の出来事でした。

写楽の役者絵は、取材した芝居の上演年代から、下記のような4期に分けられ、武者絵なども含め全部で146作品。すべて蔦屋からの出版ということになります。

■第1期  寛政6年5月の芝居に取材した作品(全28図)
都座     「花菖蒲文禄曾我はなあやめぶんろくそが
桐座     「敵討乗合話かたきうちのりあいばなし」 
河原崎座   「恋女房染分手綱こいにょうぼうそめわけたづな
       「義経千本桜よしつねせんぼんざくら
                  →大判錦絵(黒雲母摺くろきらずり)大首絵28図

■第2期  同年7月都座、8月河原崎座、桐座の芝居に取材した作品(全38図)
7月都座    「けいせい三本傘さんぼんからかさ
8月河原崎座  「二本松陸奥生長にほんまつみちのくそだち
8月桐座    「神霊矢口渡しんれいやぐちのわたし
         「四方錦故郷旅路よものにしきこきょうのたびじ
                  →大判錦絵(雲母摺あり) 二人立全身像など8図
                  →細判錦絵 全身像30図

■第3期  同年11月都座、河原崎座、桐座、うるう11月都座の芝居に取材の作品など(全64図)
11月河原崎座  「松貞婦女楠まつはみさおおんなくすのき
11月都座    「閏訥子名和歌誉うるおうとしめいかのほまれ
11月桐座    「男山御江戸盤石おとこやまおえどのいしずえ
閏11月都座   「花都廓縄張はなのみやこくるわのなわばり
                  →間判あいばん錦絵 大首絵および追善絵13図
                  →細判錦絵47図
                 ※相撲絵(大判3枚続1図/大判2図/間判1図)4図あり

■第4期  寛政7年正月の芝居に取材の作品など(全16図)
都座      「江戸砂子慶曾我えどすなごきちれいそが
桐座      「再魁槑曾我にどのかけかついろそが
                  →細判錦絵10図 
                 ※大判相撲絵2図あり 
             (年代不明)間判武者絵2図、中判恵比寿図1図、扇面合羽かっぱ摺1図 

(左)東洲斎写楽「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」 大判錦絵(第1期) 寛政6年(1794)5月河原崎座  版元:蔦屋重三郎
(右)東洲斎写楽「初代市川男女蔵の奴一平」  大判錦絵(第1期) 寛政6年(1794)5月河原崎座  版元:蔦屋重三郎
ともにメトロポリタン美術館蔵
この2点は、2枚続としても鑑賞できる。河原崎座「恋女房染分手綱」より、悪人江戸兵衛が、奴(やっこ)一平から公金300両を奪おうとする場面。三代目大谷鬼次の力をこめて両手を構えるそのユニークなポーズから、一平に襲いかかろうとする熱のこもった演技が彷彿(ほうふつ)とされる。

まず注目されるのは、デビュー作にして代表作の大判サイズの大首絵28図(第1期)で、背景を黒雲母で摺った大変贅沢な錦絵です。これは浮世絵師のデビューとしては異例の豪華さで、例えば歌麿も、葛飾かつしか北斎ほくさい勝川かつかわ春朗しゅんろう 演:くっきー!)も、デビュー作といえば大判の半分以下の大きさである細判の役者絵という安価な商品でした。新人絵師には、材料費も安く、芝居の上演期間中それなりに売れれば良いというリスクの少ない錦絵の仕事が与えられるのが通常だからです(コラム#18参照)。

また役者大首絵といえば、ブロマイド的な需要と採算の面から、主役級の人気役者を取り上げるのが通常であるのに、この第1期28図の中には、下図のように“中島和田右衛門”と“中村此蔵このぞう”という端役の役者2人の図も含まれています。この此蔵にいたっては、他に描かれた作品が確認できないために、似顔にがおを比較することさえできません。

そもそも、写楽が斎藤十郎兵衛だとして、なぜ能役者が錦絵の版下絵を描くことになったのか、やはり大きな謎は残るのです。

東洲斎写楽「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権」 
大判錦絵(第1期) 寛政6年5月桐座 メトロポリタン美術館蔵
桐座「敵討乗合話」に取材した作品。

写楽の名品の全てが第1期に集中している理由

写楽の異例のシリーズは、どのような経緯で制作されたのでしょう。歌麿の「婦人ふじん相学十躰そうがくじってい」(コラム#41参照)がそうであったように、もちろん蔦重が、決して大衆受けするとは思えない企画に挑む進取の気概に満ちた版元だったということはあるでしょう。

また吉原時代から、しばしば入銀物にゅうぎんものコラム#3参照)として出版費用を賄ってきたことも思い出されます。いまだ明確な証拠はありませんが、控え櫓の三座が芝居の上演を決めた中で、芝居好きの裕福な人物が祝儀的な意味合いも込めて、登場人物を網羅するような大首絵の企画に入銀したということも考えられるかもしれません。

ここで注目したいのは、その判型です。紙の産地や保存状態にもよりますが、一般的に錦絵に使われていた大判は約38×26.5cm、間判は約33×23.5cm、細判は約33×15.6cmの大きさです。先に述べたように第1期は28図全てが大判で、しかも雲母摺であり、我々が写楽の名品と認識している作品は全てここに属します。

ところが第2期には大判が減って細判が増え、第3期には大判がなくなって間判と細判だけになり、第4期に至っては細判だけでたった10図しか確認されていません。

東洲斎写楽「三代目沢村宗十郎の名護屋山三と三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ」
大判錦絵(第2期) 寛政6年7月都座  シカゴ美術館蔵
第2期では、このような2人の役者の全身像を描いた図と口上姿を描く大判が8図の
み、他の30図は細判。第1期に比べて顔の表現などもマイルドな印象に。

この時代の一般的な錦絵は、大きさばかりでなく、画面が小さいほど彫摺ほりすりの質も落ちるという傾向があります。(ただ、勝川かつかわ春章しゅんしょう(演:前野朋哉)率いた勝川派はちょっと別で、細判役者絵でも彫摺の質は良いのですが……)

写楽作品の中でも、判型の違う第1期と第3期の作品の彫摺を比べてみましょう。

東洲斎写楽「初代中山富三郎の松下造酒屋之進娘宮城野」 大判錦絵(第1期) 
寛政6年5月桐座 東京国立博物館蔵  出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)
東洲斎写楽「近江屋錦車」(初代中山富三郎のさざなみ辰五郎[源吾成重]
女房おひさ 実は貞任妹てりは) 間判錦絵(第3期) 寛政6年11月桐座
東京国立博物館蔵  出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)

上2図はともに「ぐにゃ富」と通称された初代中山なかやま富三郎とみさぶろうの図ですが、第1期の大判(上)は背景を黒雲母摺とし、あでやかな黒髪がえる重厚な摺になっています。これに対して、第3期の間判(下)はごく平板で一般的な彫摺であり、役者が浮き立つようには見えません。

実は全4期を通覧すると、蔦重は、写楽に任せる錦絵の商品価値を落としていっていると認識されます。それに伴い、癖の強い第1期の顔貌がんぼう表現から、だんだん個性を抑えた表現になっていることがわかります。写楽の継続的な豪華大判出版にはリスクがあるという判断であったのでしょう。

結局のところ写楽の役者絵出版は、寛政6年5月の芝居に取材した代表作の第1期から翌年正月の第4期までで終わります。

蔦重とも親しい大田おおた南畝なんぽ(演:桐谷健太)は写楽について、「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む。」(『浮世絵類考』)と記しています。つまり、役者の顔に似せようと特徴を描き出そうとするあまり顔の欠点まで強調してしまう画風は、役者ファンにとって望ましいものではなかったため売れず、その出版は1〜2年(実際には1年未満)で終わってしまったというのです。

例えば先掲の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」では、とんがった鷲鼻わしばなにエラのはった長いが印象づけられ、下掲の「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ」では美しい女形のはずが、どこか中年に差し掛かった男性が女装している感が出てしまう……。これでは役者自身も協力しようという気にならなかったかもしれません。

大衆の支持を得てこそ、薄利多売の採算の中で商売が成り立つという錦絵出版の厳しいところでもあります。

東洲斎写楽「三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ」 大判錦絵(第1期)
寛政6年(1794)5月都座  版元 蔦屋重三郎  シカゴ美術館蔵
都座「花菖蒲文禄曽我」に取材した作品。演じる佐野川市松は数え36歳で、写楽
は女方の美しさというよりは、少し頬のたるみを感じさせる中年に差し掛かった
男が演じる女役という現実を描いている。

 

ライバル絵師・豊国に完敗した写楽だが……

先述のように、江戸三座の経営破綻からの巻き返しとなった寛政6年。版元たちがこぞって役者絵出版に乗り出し、過剰供給となったことも写楽にとって不利でした。

この年の役者絵バトルを勝ち抜いた絵師の筆頭は、歌川うたがわ豊国とよくに(1769〜1825)です。日本橋の版元たちに対抗するように、芝神明しばしんめいの版元和泉屋いずみや市兵衛いちべえが出版したのが豊国の「役者舞台之姿絵」シリーズ。この年のヒット作になったと思われ、その後も豊国は人気を維持して長く浮世絵界で活躍します。

歌川豊国「役者舞台之姿絵 まさつや(大谷鬼次)」 大判錦絵 
寛政6年(1794)5月河原崎座  版元:和泉屋市兵衛  シカゴ美術館蔵

豊国の「役者舞台之姿絵 まさつや」は、以前は「仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら」の斧定九郎おのさだくろう役と考証されていましたが、現在は写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」と同じ役であるとされています。大首絵と全身像という違いはもちろんですが、写楽のようにクセの強い表現ではなく、親しみやすいカッコ良さがあります。役者ファンが見たかったのは、このような姿だったのではないでしょうか。

この5月河原崎座で上演された「恋女房染分手綱」の絵入の辻番付(興行前に出されるプログラム)が残されているのですが(早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵)、そこに描かれた衣装は、写楽作品のしま柄ではなく、豊国の図に近いものでした。

役者絵の制作法には、芝居が始まる前に情報を得て描く「見立みたて」と、芝居が始まった後に見て描く「中見なかみ」の2種類があります。上演中に売るとなれば早くから売り出せる見立の方が商売上は得ですが、見てから描く方が正確ではあります。美人画にしても歌麿の観察眼を評価した蔦重ですから、実際に見た姿にこだわったようにも思え、ゆえに鬼次の衣装が違っているのかもしれません。ただ、写楽の第3期と第4期の作品では役者の取り上げ方に誤りがいくつか指摘されていて、「見立」である上に、正確な情報も得られていなかった可能性があります。

東洲斎写楽「三代目沢村宗十郎の曽我の十郎祐成」 細判錦絵(第4期)
寛政7年(1795) 1月都座  メトロポリタン美術館蔵
写楽最後の役者絵10図のうちの1図。都座「江戸砂子慶我」に取材した作品。
当時の上演記録から、宗十郎の衣装は春駒を持つ門(かど)つけ芸人の姿であっ
たことが指摘されている。劇場からの事前情報も正確に得ていなかったようだ。

ちなみに三代目大谷鬼次は、中村なかむら仲蔵なかぞうを襲名。写楽第3期の細判「二代目中村仲蔵の荒牧耳四郎」(下図)にその姿がありますが、とても第1期の大谷鬼次と同一人物とは思えないマイルドな表現になっています。また仲蔵の同じ役を豊国も和泉屋版の「役者舞台之姿絵」シリーズに含めていますが、こちらは大判。すでに細判の写楽に格の違いを見せつけています。

東洲斎写楽「二代目中村仲蔵の荒牧耳四郎」 細判錦絵(第3期)
寛政6年11月 版元:蔦屋重三郎  シカゴ美術館蔵

大衆の支持を得ることができず、すっかり忘れられてもおかしくはなかった写楽ですが、歌麿や北斎とともに、今では最も評価の高い浮世絵師の一人です。写楽の評価が高まるきっかけは、他の浮世絵師と同様に明治時代に入ってから、西洋人によってでした。

明治30年(1897)頃、外国人に売られた浮世絵の中で、写楽が最も高い値段だったようです。浮世絵について、美術という認識もまだ根付いていない日本人が簡単に手放して海外に流出し、現在、写楽作品の多くが海外に所蔵されています。写楽のクセの強い顔貌表現が、「個性的でインパクトのある表現」を評価する西洋の美意識に合致したということでしょう。

一方で写楽の生みの親・蔦重こそ、このように“日本人離れした”美意識を備えた稀有けうな版元であったとも言えるのです。


さて、写楽は誰なのか、これまでさまざまな説が論じられていますが、今回のドラマの設定はあらゆる仮説の集合体のようでしたね。4期それぞれに画風や形式に特徴があります。特に第3・4期は明らかに絵の質が落ちるので、別人説もあります。

でも私自身は、写楽は一貫して一人だったと思っています。一人の絵師の腕が短期間に鈍るということは考えられませんが、人気が出ないとなれば、版元はその絵師の売り方を考え直さざるを得ないでしょう。

錦絵の出版は共同作業です。享受者のターゲットを再考し、万人受けするような画風を求めていく。それでもダメなら材料の質や、担当させる彫師、摺師の質を落としてコストを落としていく……。ビジネスマンとしての蔦重のクールな一面が、写楽を「謎の浮世絵師」にしてしまったように思うのです。

参考文献:
反町茂雄編『紙魚の昔がたり 明治大正編』「浮世絵商の今と昔」(八木書店 1990年)
『写楽』展覧会図録 東京国立博物館 2011年
『特別展 蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児』 東京国立博物館 2025年

*東洲斎写楽の「洲」は、江戸時代には「しゅう」ではなく濁音の「じゅう」と読まれていた可能性が高く、「とうじゅうさいしゃらく」とする研究者も少なくはありませんが、ここでは慣用的に現在一般に知られている読み方としています。

元・千葉市美術館副館長、国際浮世絵学会常任理事。浮世絵史を研究している。学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課修了。2018年に第11回国際浮世絵学会 学会賞、2024年に『サムライ、浮世絵師になる! 鳥文斎栄之展』図録で第36回國華賞など受賞歴多数。著書・論文に『浮世絵のことば案内』(小学館)、『浮世絵バイリンガルガイド』(小学館)、『もっと知りたい 蔦屋重三郎』(東京美術)など。