
連続テレビ小説「あんぱん」で注目されるやなせたかしさんご夫妻について、さまざまな角度からご紹介している連載「もっと知りたい『あんぱん』やなせたかしさんのこと」。
やなせたかしさんの秘書を20年以上つとめた越尾正子さんのインタビューシリーズ、最終回です。
暢さんに先立たれたやなせさんのその後と、やなせさんがそのころ語った「アンパンマン」について伺いました。
◆第1回インタビューはこちら(やなせたかしさんと妻・暢さんとの運命の出会い)
◆第2回インタビューはこちら(やなせたかしさんと妻・暢さんとの印象的な思い出)
◆第3回インタビューはこちら(弟・千尋さんへの思い、そして暢さんの戦後)
◆第4回インタビューはこちら(いずみたくさんとの出会い、「手のひらを太陽に」誕生秘話)
◆第5回インタビューはこちら(秘書・越尾正子さんが暢さんから託されたもの)
最愛の妻・暢さんを看取ったやなせ先生

――1993年11月に、暢さんが先立たれて……。
暢さんから「もしも自分が亡くなったら、お葬式は派手にしないで、こぢんまりと身内だけでやってほしい」と生前に頼まれていました。そのため、公表はせずに身内だけで荼毘に付すことになったんです。生前お世話になった大勢の方々には、1年後に偲ぶ会をすることにして、それまでは明かさずに静かにしておきましょうということになりました。先生は暢さんを失ったという、とてつもない悲しみを持たれていましたが、そのつらさを思い出さないように、黙々と仕事に打ち込んでおられました。
――生活は一変しましたか。
生前、暢さんがやなせ先生に“花婿修業”をされていましたが、やはりどうしても長年、暢さんが行ってきた生活面のサポートが全く無くなってしまって……。
先生は仕事をしながら、自分自身の日常のあれこれもお一人でやらなくてはいけなくなりました。それは非常に大変なことでした。しばらくして、アシスタントたちが順番に交代制で昼食を用意すると言ってくれたので、当時40代の年長の私は「そしたら私は、夕食などをお手伝いしましょう」と言ったわけです。私の見込みでは“やなせ先生ほどの人なら、しばらくしたら、家事が上手なお手伝いさんが来てくれるんじゃないか”と思っていて、1年ぐらい頑張ればいいと思っていたんです。というのも、私は家事が大の苦手で……料理も苦手なんです(笑)。
――その後、どうなされたんですか。
なかなかお手伝いさんの候補者が出てこなくて、おかしいなと思っていたんですよ。
実際には、先生のところに何人か家事をやりたいという方はいたらしいんです。何年か経ったときに、先生から当時のことを打ち明けられて……「やりたいと言ってくれた人はいたんだけど、みんな断ったよ」と(笑)。先生は「越尾さんがいるから。大丈夫!」と断ってしまっていたそうです。「ええ!?」と思わず声を出して驚きました。

暢さんが亡くなってからも、やなせ先生のところには「アンパンマン」の絵本をはじめ、たくさんの仕事が舞い込んで来ました。先生は必ず仕事を締め切り前までにきっちりと対応される方。仕事の注文に応えているうちに、自然と時間は経っていきました。
“時間薬”といいますか、暢さんを失った悲しみは悲しみとして持ち続けたままでしたが、時間が経つにつれて、その悲しみ方が少しずつ変わっていくような感じでした。最初の頃みたいに、うんと仕事に打ち込まないと居てもたってもいられないような感じではなく、心の奥には暢さんを失った悲しみを抱きながらも、時間が経つにつれて、仕事を楽しんでされるようになりました。
――そうだったんですね。
そうこうしているうちに、仕事がさらに忙しくなっていきます。先生は、暢さんの具合が悪いときは、テレビのインタビューなどの表に出る仕事はセーブしていたんです。でも暢さんが亡くなってから、一度NHKから頼まれてインタビューに出演したことがあって……そしたら他の局からもこっちにも出てください、という取材依頼が次から次へと舞い込みました。当時、アニメ「それいけ!アンパンマン」も右肩上がりで、人気は爆発的にどんどん上がっていきました。先生のもとには講演会の依頼もすごく来るようになります。仕事を受けているうちに、さらに依頼が増えていくというような状況でした。

――さらに多忙になられて。
その後、2000年ごろから、先生は講演会という形式にこだわらず、コンサート形式に切り替えるようになります。
先生いわく、講演会に来たお母さんは小さなお子さま連れが多く、大人を満足させようと思うと子どもは退屈してしまうし、子ども相手の内容にすると大人は物足りなくなってしまうということを気にされていました。そんな時に、童謡歌手の大和田りつこさんと岡崎裕美さんが先生に「コンサートの演出をしてください」と頼みにいらっしゃいまして……そんな縁から、先生が「一緒にアンパンマンコンサートをやろう」と歌を歌うコンサートをするようになります。
先生は「人生は喜ばせごっこ」とおっしゃって、子どもから大人まで楽しめるステージを各地で行うようになり、ますます外へと出るようになりました。
亡くなる半年前に、戸田恵子さんと神戸で

――やなせ先生は神戸アンパンマンこどもミュージアム&モール開館セレモニーに出席されましたね。
先生は亡くなる約半年前、2013年4月19日に開催された開館セレモニーに、94歳で登壇されています。先生は70代のときに白内障を患って手術もしたのですが、その後も目の病気で90代のときには視力低下で非常に物が見えづらい状態になっていました。
この神戸のイベントの前には、折りたたみのステッキを持つようになりました。「ステッキがあると“自分は年寄りで目も悪いんだから”と足元に気をつけよう、という意識になる」と言って。でも、ステッキが邪魔になると私に預けて、とっとと行っちゃう(笑)そんなお茶目な一面もありましたね。

そんなわけで、セレモニーのテープカットのとき(初めて訪れた場所ということもあって)先生が「ステッキ、どうしよう」と。そうしたら、同じく出席者の戸田恵子さんがそばに来て「自分がアテンドするから置いて大丈夫ですよ」と言ってくださったんです。先生はステッキを私に預けて、戸田さんと一緒に登壇することになりました。戸田さんが先生に「ここ階段で上がりますよ」と支えながら壇上に連れていってくださって。2人の姿を見ながら、じーんと胸が温かくなりました。
――信頼なされていたんですね。
写真にもあるとおり、実は先生は自分のシルエット柄のジャケットを着られているんです。先生は「メンズ用品には目立つおしゃれな柄がない」と言われて、婦人服のドット柄の背広を着るぐらいでした。あるとき、私に「自分のシルエット柄で生地を作れないか」と言われ、「作れますよ」と返事をして、特注で生地を作ってもらい、そしてお洋服に仕立ててもらったんです。

――とても素敵です。
おしゃれにもこだわりをお持ちでした。自分のシルエット柄のジャケットなので、先生自身「気をつけて歩くようになる」と言っていましたね。90代でもいつもぴしっと綺麗な姿勢を保っていて、歩き方も非常に綺麗でした。
やなせ「アンパンマンは独り立ちをした」

—―アニメ「それいけ!アンパンマン」が長く放送されて、先生はどのように思われていましたか。
アニメの世界は、やなせ先生一人ではできないものです。でも、先生が作品に込めた明確なテーマがはっきり示されているから、それを作るアニメーター、脚本や監督の方など、作品に関わる大勢の方々が、先生の思いをきちんと繋いで作品を作っていました。先生はものすごく安心していましたね。
放送が始まる最初の1988年ごろ、調布にあった東京現像所で、毎週試写をして原作者のやなせ先生と関係者で世に出してよいかを確認し合っていました。
デジタルでの制作になる2000年ごろには、やなせスタジオに試写室を作り、関係者も集まっての試写をし続けていたんです。先生は目が悪くなっても、本当に身体がきつくなる最晩年まで、試写を続けていました。
—―すごいですね。
先生は背景もキャラクターも描けますし、色味や音楽のこと、ストーリー展開についても、ご自身、いろいろなお仕事を経験しているからこそ「ここが良かった、ここはこうして欲しい」ということが言えてしまうんです。アニメはキャラクターを描く人、背景を描く人など、それぞれの専門分野の方がいるから、チームで1つの作品を作るんですけど、それを批評するのがやなせ先生の役割に自然となっていました。放送開始からずっと変わらず、先生の思いを作品に反映してくれて、先生も感謝されていました。長年監督を担当されている永丘昭典さんは、先生の言葉がずーっと蓄積されている方だから、先生の世界観がぶれずに今も変わらず作品が放送できています。絵本はフレーベル館から長年出版されて、世の中へ出ています。先生の努力と、先生の作品を大切に思って作ってくれる人たちのおかげで、やなせ先生にとっていい形で作品が動いて、世の中に回っていく。そんな様子を見て先生はいつも「うれしい」と言っていました。
—―そうだったんですね。
先生は85歳のときに初めて腎臓がんを患い、その後も別の病気やほかのがんが見つかるなど、手術と治療をしながらも精力的に仕事をしていました。亡くなる3か月前の2013年7月にも、アニメ「それいけ!アンパンマン」の映画公開の舞台挨拶に登壇しました。
そのころから暑さで体調を崩し気味になり入退院を繰り返すようになりました。そして8月に1か月ほど入院をして、そろそろ退院、というころ“これから養生しながら仕事がしやすいお部屋に模様替えしよう、それで退院しましょう”という話になりました。ところが9月末ごろに、肝臓にがんが転移しているのがわかって、退院できませんでした。そしてそのまま10月13日に穏やかに眠られるように息を引き取られました。
大学病院の病室で、医師と看護師、私が最期を看取りました。
やなせ先生は亡くなる前に、「アンパンマンは、もう僕の手から離れて、独り立ちをしたから安心だ」と言っていました……「アンパンマンは僕たちの子ども」と言っていた先生が“アンパンマンは僕の正しいと思う道を一人で歩んでくれているからもう大丈夫だ”、と。アンパンマンが単なる創作キャラクターではなく、子どもたちの心の中で生きる「本物のヒーロー」になったというのは先生にとって一番嬉しいことで、先生にとって未来の希望でもありました。独り立ちして大丈夫と思えて亡くなられたことは、作家としてものすごく満足だったんじゃないかしら。
「正義とは何か?」をひたすらに考え続け、「空腹の人を助けることこそが正義」という答えを導き出した先生のアンパンマンが、今もなおたくさんの方々に愛され続けられていることは先生にとって誇りで幸せなことだと思います。

【プロフィール】
こしお・まさこ
株式会社やなせスタジオ代表取締役。1948年生まれ。高校卒業後、趣味で続けていた茶道の稽古場で、やなせたかしの妻・暢と知り合う。そのご縁で、1992年に有限会社やなせスタジオに入社。秘書として、20年以上にわたり、そばでやなせの作家活動を支える。やなせが亡くなったあと、2014年から株式会社やなせスタジオの代表取締役に就任。現在も、やなせの作品の管理に携わっている。
朝ドラ「あんぱん」は26日(金)に最終回を迎え、越尾さんが語るやなせ夫妻のお人柄や魅力をお伝えするインタビューも今回で最終回です。引き続き、「やなせたかし展」でやなせさんの世界を楽しんでいただけたらと思います。
(取材・文 松田久美子 [NHK財団])
(取材協力 やなせスタジオ、フレーベル館)
やなせご夫妻をモデルにした朝ドラ「あんぱん」の記事はこちらからご覧ください。