
連続テレビ小説「あんぱん」で注目されるやなせたかしさんご夫妻について、さまざまな角度からご紹介している連載「もっと知りたい『あんぱん』やなせたかしさんのこと」。
今回は、やなせたかしさんの秘書をつとめた越尾正子さんのインタビュー第5回です。
暢さんとの二人旅の思い出、やなせ先生の“花婿修業”、暢さんの晩年の様子について伺いました。
◆第1回インタビューはこちら(もっと知りたい!「あんぱん」と、やなせたかしさんのこと 秘書をつとめた越尾正子さんにお聞きしました | ステラnet)
◆第2回インタビューはこちら(もっと知りたい!「あんぱん」と、やなせたかしさんのこと 越尾正子さん「今田美桜さんの表情や仕草で暢さんを思い出す」 | ステラnet)
◆第3回インタビューはこちら(もっと知りたい!「あんぱん」と、やなせたかしさんのこと 弟・千尋さんへの思い、そして暢さんの戦後 | ステラnet)
◆第4回インタビューはこちら(もっと知りたい! 「あんぱん」と、やなせたかしさんのこと いずみたくさんとの出会いと関係、「手のひらを太陽に」誕生秘話 | ステラnet)
暢さんとの忘れられない二人旅

――暢さんとの印象的な思い出はありますか?
お茶のお稽古でお世話になったご縁で、1992年にやなせスタジオに入社しましたが、それから1年ほどで暢さんは亡くなられました。93年の11月のことです。亡くなるおよそ半年前の5月の連休に、暢さんと私の2人きりで金沢へ旅行に行きました。最初で最後の暢さんとの二人旅で、今でも大切な思い出になっています。
私が入社する前から、暢さんは乳がんを患っていました。最初にがんが見つかったのは1988年で、すでに手遅れと言われたそうです。でも、暢さんは91年にやなせ先生が春の叙勲で勲四等瑞宝章を受章したときは同行していますし、お茶会などに出席することもできて、まだまだ元気でした。ちょうど私が入社したあたりに、がんが再発し、徐々に体調を崩し始めます。ただ金沢旅行に行った時にはまだ暢さんは体力もあり、旅行を楽しめる余裕がありました。

――旅行先に金沢を選んだのはどうしてですか?
春先に、暢さんから「金沢に行きたい」というリクエストがありまして、1泊2日で私が計画を立てました。1日目はまず兼六園へ。その後、妙立寺(忍者寺)や大樋焼の大樋美術館にも行きました。翌日は帰る日だったので、最後に私が日本海をどうしても見てみたくなり、タクシーの運転手さんに「日本海が見える場所に連れてってください」と頼んで向かいました。暢さんは私に喜んで付いてきてくださいましたね。そして、暢さんと日本海を見ながら、「太平洋の海の色や空の色とは違いますね」なんて他愛もない話をして、そして帰路に着いたんです。2人で穏やかなひとときを過ごした旅行でした。暢さんも「楽しかった」と言ってくれてうれしかったです。
やなせ先生の“花婿修業”

――その後の暢さんはいかがでしたか。
気候が暑くなってくると、暢さんはよく体調を崩すようになります。それでも、できるかぎり自分の身の回りのことや先生のサポートをされていて……。暢さんの具合が悪い時には、やなせ先生が晩ご飯を作っていらっしゃいました。暢さんが私に「今ね、うちの人(先生)は花婿修行してくれてるの。昨日は、カツ丼を作ってくれたのよ。それがすごく上手で美味しかった」とうれしそうに話していました。暢さんいわく、やなせ先生は、カツ丼を作るとき、玉ねぎがシャキシャキしていて、カツの衣もなるべくサクサクの食感を残すように、気をつけていたそうです。2人の仲睦まじい様子を聞くたびに、素敵なご夫婦だなと思っていました。
――暢さん、かわいいですね。
暢さんにしてみれば、自分がいなくなった後のことをすでに考えてらしたんだと思います。“花婿修業”と楽しくおっしゃっていましたが、自分がいなくなった後も先生が困らないように、少しずつそういう生活に慣れてもらいたいという思いがあったんじゃないかしら。
仕事に関しては先生は一切の口出しを嫌う方なので、暢さんは口を挟まないんだけど、生活の面では暢さんが引っ張っていたので、先生に「やってね」と言って練習させていたんじゃないかと思います。
最後まで周りの人を気にかける、暢さんの心配り

――暢さんは自分が亡くなった後のことも考えていらしたんですね。
あるとき、暢さんから「もし将来、仕事が減ったら今いるアシスタントを雇えなくなる日が来るかもしれない。そのときは、あなたから『私が色を塗ります』と言ってあげてね」と頼まれたんです。
当時、アニメ「それいけ!アンパンマン」が放送されていましたが、暢さんも周りの人も当時はこれほどまでの人気が続くとは思っていませんでした。暢さんはいつも「うちの人(先生)は人付き合いが下手だし、苦手だから、仕事が続かないかもしれない」と心配されていて……。
私は子どものころから塗り絵が苦手でいっぱいはみ出しちゃうタイプなので、「私はダメですよ」と暢さんに言いましたが、「絶対、大丈夫だから! あなたから『塗ります』と言ってあげてね」と押し返されて……。やなせ先生は、本人ができるかどうかよりも「やりたいです」という人に仕事を任せるところがありました。暢さんもそのことを知っているから、先回りして、仕事面でも先生が困らないように心配りをされていたんだと思います。

――そうだったんですね。
それからも、暢さんから「あなたはうちの人(先生)と似たところがあるから、きっと気が合うと思うから辞めないでね」とおっしゃって。普通だったらお任せください、とお返事するのかもしれませんが、私の性格上、約束したのに裏切ることになったら申し訳ないと思って、曖昧に答えていたんです。でも、徐々に具合が悪い時間が増えるようになると、暢さんは「ちょっと子どもっぽいところがある2人を残していくのは心配だわ」と、まるで母親のように先生と一緒に私のことまで気にかけてくださいました。
――やさしい方だったんですね。
ちょうどそのころ、暢さんのお母様は施設に入ることになり、暢さんは「自分の手術が終わったら、お母さんを引き取って、私がそばで面倒を見る」とおっしゃっていたんです。それを聞いたやなせ先生も妹さんも「それは絶対にだめだよ」と言ってお母様には熊谷の施設で暮らしてもらうことになりました。暢さんはご自身の体調の良いときを見計らって、月に1度は必ず、お母様に会いに行かれていました。でも、とうとう暢さん自身が、もうお母さんを見届けられない身体になっていることを自覚して、先生や妹さんたちに託したんです。「お母さんの面倒を自分できちんと見たかったけれど、残っている方にお願いしたい」と言われて。そして1993年11月22日、暢さんは亡くなりました。暢さんが入院していた病院に私が到着したとき、看護師さんから「今、連絡するところでした」と言われ、私は急いでスタジオに連絡を入れてやなせ先生にすぐ来てもらいました。そして、暢さんは先生に見守られながら息を引き取りました。それが最後のお別れでした。

その後、暢さんが亡くなられてしばらく経ったころ、やなせ先生が「今度、出張についてきてくれないか?」と私に頼まれたんです。もちろん私は「行きます」と返事したら、先生は「カミさんが『越尾さんは旅のことがちゃんとできるから安心よ』と言っていたから、よかった」とおっしゃって。暢さんは先生に、私との金沢旅行のことを密に話されていたようです。いま思うと、もしかしたら先を見通して、私のことを先生に伝えてくれていたのかもしれません。
暢さんは勝気な性格のハチキンでしたが、最期まで、自分のことよりも常に相手のことを思って行動する、強くてやさしい、愛にあふれる方でした。

【プロフィール】
こしお・まさこ
株式会社やなせスタジオ代表取締役。1948年生まれ。高校卒業後、趣味で続けていた茶道の稽古場で、やなせたかしの妻・暢と知り合う。そのご縁で、1992年に有限会社やなせスタジオに入社。秘書として、20年以上にわたり、そばでやなせの作家活動を支える。やなせが亡くなったあと、2014年から株式会社やなせスタジオの代表取締役に就任。現在も、やなせの作品の管理に携わっている。
次回は、その後のやなせたかしさんについて語る、越尾さんインタビュー最終回。「晩年のやなせ先生」についてお届けします。
次回もお楽しみに!
(取材・文 松田久美子 [NHK財団])
(取材協力 やなせスタジオ、フレーベル館)
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