
歌手の大川栄策さん(76歳)は、昭和を代表する作曲家・古賀政男さんの最後の内弟子です。師匠の教えを胸に音楽活動を続け、1982(昭和57)年には「さざんかの宿*1」が大ヒットしました。在りし日の古賀さんとの思い出の数々を語ります。
*1 失恋の切なさを歌い、発売からわずか6か月で100万枚を売り上げた。作曲は市川昭介、作詞は吉岡治。
聞き手 山下信
この記事は月刊誌『ラジオ深夜便』2025年11月号(10/17発売)より抜粋して紹介しています。
生涯の師匠・古賀政男との出会い
――大川栄策というお名前は、師匠である古賀政男さんがお付けになったそうですね。
大川 そうなんです。先生と僕は同じ福岡県大川市の出身で、ふるさとを思う“大川を栄えさせる対策”との意味を込めて、大川栄策と付けていただきました。
――古賀さんご本人に初めてお会いになったのは、いつごろのことですか。
大川 僕は、小学生のころから歌うことが大好きで、明けても暮れても歌っていました。高校1年の夏、そんな僕を見ていた父親が同郷のつてを頼って、先生に会う機会を作ってくれたんです。先生に初めてお会いしたときは、そのオーラに圧倒されましたね。なにしろ、故郷のヒーローでしたから。
――そのときに「歌手になりたい」と伝えられたと。
大川 もちろんです。当時はやっていた村田英雄さんの「柔道一代」を、先生の目の前で歌いました。実はこれは、先生が作られた曲ではありません。「せっかくなら古賀メロディーの曲を歌えばよかったのに」と思いますが、子どもだったからそこまで頭が回らなかったんです(笑)。でも、僕の歌を先生は真剣に聞いて、「東京にいらっしゃい、一緒に歌を勉強しよう」とおっしゃって。あまりのうれしさに有頂天になりましたね。
厳しい内弟子生活
――大川さんは、古賀政男さんの最後の内弟子ということですが、どのような経緯で内弟子になられたのでしょうか。
大川 高校卒業後に上京して、先生に会いに行ったんです。でも紹介状がないからなかなか会わせてもらえない。しばらくアルバイトをしながら、先生が作られた音楽学校で歌を学んでいたら、ある日、先生が「九州から来ている子はいないか」と探しに来てくださったんです。それからは、先生から直接指導を受けられる特別クラスでレッスンを重ねました。
そんな日々が1年半ほど過ぎたころ、先生から「人手が足りないから行儀見習いを兼ねて自宅へ来い」と言われまして、それから内弟子生活に入ったんです。
――具体的にどんなことをされたのですか。
大川 いつも先生のそばにいて、庭木の手入れをしたり洗車したりあらゆる雑事をこなしました。先生がレコーディングのときは、スタジオまで車で送迎したりね。時間は、たいてい朝6時から夜9時ごろまででしたが、先生が深夜まで会合がある日は、起きてお戻りを待ったりもしました。お休みは、月に2回程度だったと思います。
――それは厳しい日々でしたね。歌のレッスンも、そんな中で受けられたのですか。
大川 先生がいちばん最初におっしゃったのは、「歌は声のお芝居。歌詞が紡ぐストーリーを、聞く方の目に浮かぶように表現するのが歌い手だ」ということでした。ただ声を出せば歌になるわけじゃないと。その言葉に、「ああ、そういうことなんだ」と深く感銘を受けたことを覚えています。
※この記事は2025年7月14日放送「作曲家・古賀政男を語る」を再構成したものです。
大川さんのレコードデビューにまつわるエピソードや、古賀先生からの忘れられない言葉など、大川さんのお話の続きは、月刊誌『ラジオ深夜便』11月号をご覧ください。

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