NHK財団で主催する「インフォメーション・ヘルスアワード」。その選考委員のひとり、江口清貴さんは様々な肩書を持ちます。
LINEヤフー(株)ソーシャルアクション推進室ディビジョンDivリード、(一財)LINEみらい財団専務理事、神奈川県情報統括責任者(CIO)兼データ統括責任者(CDO)、防災DX官民共創協議会専務理事、東北大学災害科学国際研究所特任教授……江口さんに、LINEみらい財団や旧LINE社(現LINEヤフー社)での10年にわたる取り組み、そして防災の最前線について伺いました。

SNSいじめ、コロナ禍、災害現場……「可視化」時代の課題と向き合う10年
――江口さんはこれまで、いじめ問題から災害現場まで、幅広い社会課題に直接関わってこられました。まずは、旧LINE社の若年層のリテラシー教育を担っていたLINEみらい財団の取組みについて教えてください。
江口 LINEの市場が拡大する中で、子どものいじめやトラブルが社会問題となり、それに取り組むことが会社としての重要なテーマとなりました。 最初は「いじめやトラブルに繋がる情報が来ないように設定しましょう」といった対策も検討しましたが、それだけでは根本的な解決にはなりません。なぜ問題が起きるのか、その原因を探ることが出発点でした。
調査を進める中で分かったのは、子どもたちは大人が想像するような使い方をしていないということです。そこで見えてきたのが、「テキストコミュニケーションにおける認識のズレ」でした。例えば「この絵、かわいくない」という一文も、語尾やトーンがないため、肯定か否定か判断しづらい。SNSでは短い言葉でやり取りすることが多く、誤解が生まれやすいのです。
そこで、「自分にとっての当たり前と、人にとっての当たり前は違う」という気づきを促す教材づくりを始めました。親御さんはSNSの問題を心配しますが、私は「子どもは必ず抜け道を探すもの」と伝えています。それは成長の過程であり、親子でどう守るかを一緒に考えることが大切です。
解決策は、子どもと大人が話し合い、自分たちでルールを決めること。「言われたことを守らない」前提で、どうすれば守れるかを一緒に考えることが重要です。
――LINEをはじめとしたSNSトラブルは減ったのでしょうか?
江口 2016年から活動を続けていますが、トラブル件数が劇的に減ったわけではありません。ただ、LINEをはじめとしたSNSが原因とされる事件も減ってきたのは、取り組みの成果だと感じています。
学校で教材を使った講演も行っていますが、教材そのものが問題を解決するわけではありません。大切なのは、その体験が子どもたちの記憶に残り、考えるきっかけになることです。
――江口さんから見た学校現場の課題は?
江口 学校や地域にはさまざまな背景や属性を持つ人たちがいて、それぞれ異なる課題が生じています。同じ地域内でも学校ごとに雰囲気や生徒の様子は異なり、さまざまな要素が学校ごとの文化や課題に影響を与えています。
環境の違いは、ネット上の問題にも影響します。ネットだけで生活している人はいないので、現実のコミュニティ構造がオンラインにも反映されるのです。
ネット環境の特徴は“圧縮されたテンポ”
――情報空間における課題は、時代とともに変化しているのでしょうか?
江口 本質的な課題はあまり変わっていないと思います。江戸時代の恋文や戦国時代の武将の書状にも、誤解やミスはあったはずです。ツールが変わっただけで、コミュニケーションの難しさは昔から存在しています。
ただ、現代で大きく変わったのは“テンポ”です。SNSの普及でやり取りのスピードが格段に上がり、人間関係の浮き沈みも加速しました。摩擦も早く起きる。今のネット環境の根本的な特徴は、この“圧縮されたテンポ”です。
SNSは24時間365日つながれる便利なツールですが、逆に言えば24時間365日攻撃し続けることもできてしまう。単純に利用時間を制限しても、本質的な解決にはなりません。重要なのは、攻撃の“カスケード”(連続)が起きないようにすること。いじめや炎上は、いきなり発生するのではなく、日々の小さな行き違いが積み重なって起きる。これは健康と同じで、病気もゼロか100かではなく、グラデーションの中で進行します。だからこそ、予防が必要です。
例えば、何気ない言葉の行き違い―「これ可愛くない」という一言ですら誤解を生み、それが積み重なって“この人は違う”という認識になり、攻撃のきっかけになることがあります。叩いていいというコンセンサスが生まれた瞬間、群れの心理で一気に広がる。人間は秩序を保つため共通ルールを作りますが、現代では一人が複数のコミュニティに属し、それぞれにローカルルールがあります。この複雑さがネット上の分断や攻撃の背景です。
いじめや攻撃の背景には“共通ルール”があり、破ったと見なされた瞬間に制裁が始まります。加担者に罪悪感がないのも特徴で、むしろ「場を守る」という善意に近い感覚で行動することが多い。問題は、“攻撃していい”という許可が生まれる前にどう防ぐかです。これはネットだけでなくリアル社会でも同じ構造で、昔から続く課題です。LINEやXなど特定のプラットフォームが原因ではなく、コミュニケーションの場そのものに潜む問題です。
だからこそ、根本的なアプローチが必要です。小手先の対策ではなく、なぜこうした現象が起きるのかを突き詰めること。今、私が取り組んでいる核心はそこにあります。まだ答えはありませんが、「情報的健康」など多様な視点からのアプローチが重要です。社会全体が新しい環境に適応しようと進化している今、アプローチの仕方も変わるはずです。
こうした問題は昔からありましたが、デジタルによって“可視化”され、よりクローズアップされるようになりました。SNSがあるからいじめが起きるのではなく、もともと存在していた問題が見える化されたのです。先生がSNSで「いじめがある」と確認できるのは、以前は見えなかったものが可視化されたからです。だから、SNSを禁止しても解決しません。別のプラットフォームやリアルな場で同じことが起きるだけです。
人間が持つ本質的な機能がスマホの中で圧縮され、テンポが速くなっている。逆に言えば、止める方法もデジタルで工夫できるはずです。
ダイヤモンド・プリンセス号で起きていたこと
――2020年の新型コロナ禍、大型クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に留め置かれ、長期の隔離が行われた当時、現場はどのような状況で、江口さんはどんな思いで動かれたのでしょうか?
江口 厚生労働省の要請で動き始めましたが、当時は本当に混乱していました。ダイヤモンド・プリンセス号が横浜に入港したとき、世の中もメディアも「何が起きているのか分からない」状態。船内はさらに深刻で、日本人乗客は目の前に祖国があるのに降りられず、狭い船室で隔離され、ドアの向こうには目に見えない病原体が広がっている。そこで生まれる感情は恐怖しかありませんでした。
一番の課題は、乗客と国の関係機関とのコミュニケーションがうまく取れなかったことです。何ができるかを考え、最も早い方法として“スマホを配りLINEで直接つなぐ”ことを決断しました。船内のインフラは厳しく、テレビはBSだけでNHKも国際放送のみ。Wi-Fiも遅く、英語が分からない人も多い。高齢者や外国人乗客も多く、通信手段が限られていました。
スマホを配布し、LINEを急遽セットアップして乗客と支援スタッフを直接つなぐ仕組みを構築。さらに、憶測が飛び交うテレビ情報による混乱を防ぐため、公式で正確な情報をLINEで届ける体制を整えました。
下船後も世論のバッシングや情報の混乱が続きました。隔離を2週間行い医学的には問題ない状況でしたが、「なぜ出すのか」という声が多く、メディアの影響も大きかったと思います。
現場では、恐怖心から断定的な情報に流されるケースが多く、実際に対応していた人たちは「わからないことはわからない」という正直な声よりも、断定的な言葉が広がってしまう。この現象は災害時だけでなく、現代社会全体でも起きていると痛感しています。

「災害時のデマ」とどう向き合うか
――江口さんは地震災害の現場でも活動していらっしゃいます。
江口 熊本地震や能登地震では、LINEのグループ機能やオープンチャットが現場での情報共有に大きな役割を果たしました。こうした仕組みのおかげで、外部からのデマに踊らされることはほとんどありませんでした。これはユーザーが成熟し、適応してきた証拠だと思います。むしろノイズに反応するのは被災地外の人たちで、現場では冷静に対応するケースが多いのです。
ただ、南海トラフのような広域災害では、情報の混乱はさらに深刻になるでしょう。そこで重要なのは、情報を“健康的”に扱う仕組みです。デマは悪意だけでなく善意からも生まれます。「この水おいしい」という一言でさえ、文脈次第で誤解を招くことがあります。だからこそ、情報の出所や信頼性を明示し、誰がいつ言ったかを追跡できる仕組みが必要です。これは単なる情報リテラシー教育ではなく、社会全体で共有できる“常識”として根付かせることが重要です。
特に高齢世代はスマホを使う人が増えていますが、情報の真偽を見極める力が弱く、動画共有サービスなどで誤情報に触れるリスクが高い。この対応は急務だと思います。
デジタル化で変わる防災

――防災DX※についても江口さんは深く関与していらっしゃいます。
(※デジタル技術を活用して災害対策を強化・効率化すること)
江口 防災に取り組む根本には“社会全体のデジタル化”があります。行政や民間、学術などで局所的なデジタル化は進んでいますが、全体を俯瞰した統合的な仕組みはまだありません。防災はほぼすべての部門に関わり、人命を守るという点で“本丸”です。
一方で、防災DXという言葉が流行すると、安易に参入しようと考える企業も増えてきます。しかし、人命に関わる領域で「やってみたけどダメでした」では済まされません。災害時にシステムが止まるリスクは絶対に避けるべきです。だからこそ、営利目的の軽いノリではなく、しっかりとした仕組みを構築する必要があります。これが今、私が最も重視していることです。
――江口さんは現在、神奈川県での防災に関わる立場(情報統括責任者[CIO]兼データ統括責任者[CDO] )、と同時に全国をつなぐ取り組みも進めています。今後の展望をぜひ教えてください。
江口 東日本大震災以降、熊本地震や台風、停電、能登半島地震、コロナ禍と現場で支援を続けてきましたが、毎回「なぜ準備できなかったのか」という反省が繰り返されています。南海トラフ地震で準備不足により多くの犠牲が出るとしたら、それは“やらなかった不作為”の責任です。今度こそ本気で取り組むべきだと強く思っています。
防災庁の設立が進む今、そこに全力で支援し、しっかりした仕組みを作ることが私たちの悲願です。省庁は人事異動が多く経験が積み重なりにくい構造ですが、現場経験を生かし、次の災害に備える仕組みを構築することが重要です。
日本は必ずまた大きな地震に直面します。防災の目的は人命を守ること。そのためには“事前防災”が不可欠です。私はこの言葉を強調してきました。デジタルを活用し、事前に避難を促す仕組みを作ることが重要です。
例えば藤沢市では、山も海もある地域特性を踏まえ、LINEなどを使って「あなたは今そこにいて大丈夫?」と個別通知する仕組みを検討しています。こうしたことは2018年頃には難しかったですが、今ならスマホの普及で可能です。
悪い情報に触れても耐えられる“免疫力”を育てる
――情報的健康、について江口さんのお考えを教えてください。
江口 情報も防災と同じく“事前の準備”が重要です。良い情報だけを与えるのではなく、悪い情報に触れても耐えられる“免疫力”を育てる必要があります。これは健康と同じで、ファストフードを排除するのではなく、食べても体を壊さない基礎体力を作ること。「情報的健康」も排除ではなく耐性を高める方向で考えるべきです。
偏らないことが重要です。“正しさ”は時代で変わります。江戸時代や明治初期に正しいとされたことが今では否定される例も多い。逆に、今ダメだと言われることが将来評価される可能性もある。つまり、正しさは絶対ではないという視点が必要です。
現代では、その“正しさ”をめぐる対立が極端になっています。アメリカでは分断が進み、要因の1つはデジタルによる“可視化”です。人々の声がゼロかイチで表現され、極端な意見が際立つ。結果、群集心理で楽な答えに飛びつきやすくなる。この構造は私たち自身が作った問題でもあります。
企業は表層的な問題解決をやる方が評価されやすいですが、それだけでは次につながりません。本当に必要なのは、他社ではできない“深い層”の根源的な問題へのアプローチです。理想は、問題が静かに消えていくこと。企業として“やった感”はなくても、解決されればそれでいい。
これを言って怒られたことがないので言いますが(笑)、LINEのように、「日本のITを支えている」と豪語する企業なら、こうした本質的な課題に取り組む責任があると思っています。
(取材・文 社会貢献事業部 木村与志子/写真 石井啓二)
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