連載「セツと八雲 ゆかりの地を歩く」シリーズのまとめはこちら

「シツレイナガラ、オサキ、ヤスマセテ、イタダキマス」
トキが毎晩かけていた就寝の挨拶そのままの言葉を残し、静かに旅立ったヘブンさん。あふれる涙を止めることなく微笑ほほえんでいたトキの表情と、重ねられた2人の手が心に深く残りました。ヘブンさん好みの寂しげな墓地に彼を葬った後のトキの慟哭どうこくが忘れられません。

小泉八雲が息を引き取ったのは明治37(1904)年9月26日。「パパさん」「ママさん」と呼び合い、長い時間をともに過ごした妻・セツに見守られた最期でした。戒名は「正覚院殿浄華八雲居士」。ひとりの日本人として彼岸へ渡りました。

八雲は意欲的にかつての出雲国(松江とその周辺)を訪ね歩き、その印象を著作に記しました。連載コラムのラストとなる今回は、これまでにご紹介しきれなかった、八雲が愛した場所を訪ねます。


八雲が繰り返し訪れた、憧れの地・杵築

『古事記』にかれて日本にやってきた八雲にとって、杵築きづき大社(現在の出雲大社)は憧れの場所だったのでしょう。当時は鉄道もなく、松江から船と人力車を乗り継いで片道7時間の道のりだったにもかかわらず、生涯にわたり3度も杵築を訪れ、そのたび杵築大社に参拝しています。

八雲山を背にたたずむ国宝・出雲大社御本殿。現在の御本殿は1744年の造営。大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式にのっとった建物で高さは24mに及ぶ。

初回は松江に来た2週間後の明治23(1890)年の9月。この時、八雲は外国人として初の本殿昇殿を許されました。2回目に訪れたのは翌明治24(1891)年の夏。7月の終わりから8月の前半にかけて2週間ほど滞在し、海水浴や豊年踊り見物も楽しみました。この時はセツや西田千太郎も同行しています。
そして3回目の訪問は明治29(1896)年の8月。セツと長男の一雄、西田を伴って1週間ほどの滞在でした。


海の向こうに沈みゆく夕日に、人智を超えた力を感じる――稲佐の浜から日御碕へ

稲佐の浜。弓形に続く白砂の浜に小さなほこらまつった弁天島がある。唯一ほぼ完本の形で伝わる奈良時代の地誌『出雲国風土記』に記された国引き神話ゆかりの地と伝わる。

出雲大社から西に1kmほどの距離にある稲佐の浜は八雲のお気に入りの場所でした。この地は『古事記』に描かれた国譲り神話の舞台と伝わります。また出雲で“神在月かみありづき”と呼ばれる旧暦10月、日本全国から八百万やおよろずの神々が降り立つ神聖な場所。八雲はこの浜の景色を次のように記しています。

町を見おろす小高い山から、入江の右手をふさいで、松の木の生い茂った峨々たる岬――杵築岬が長く伸びでていて、左手の方には、低い連綿たる山々が、そのうしろの青い空に、靄然あいぜんとしてそびえ立つ藍色の大きな山――さんさん鋸形のこぎりがたの影法師をかさねて、平沙のかなたの地平線をかぎっている。そして、すぐ目の前には、日本海が遠く天涯につらなっているのである
(小泉八雲『日本瞥見記べっけんき 上』「杵築雑記」)平井呈一訳より)

そして夜になると水平線に現れる漁火いさりびを「炎の水平線」という印象的な言葉で表現しました。

神迎かみむかえの道”沿いに季節の花がさりげなく飾られ、行く人の目を楽しませる。

稲佐の浜に降り立った八百万の神が出雲大社へ向かう道は“神迎の道”とも呼ばれ、神聖なものとして古くから大切にされてきました。
この道を歩くと、通り沿いの家々の軒先などに花を生けた竹筒が下がっているのを目にします。この竹筒は古くから地元に伝わる風習「潮み」で使われているもの。地元の人々は朝早く稲佐の浜で竹筒に海水を汲んで出雲大社に参拝し、持ち帰ったその海水で家や身を清めるのだとか。
古くから連綿と受け継がれてきた神々への畏敬の念が、今も大社の町には息づいています。

2回目の杵築滞在中、八雲は日御碕ひのみさき神社にも訪れています。出雲大社から10kmほど、島根半島の西端に位置する日御碕神社は、天照あまてらすおおかみ素盞嗚尊すさのおのみことを御祭神とする古社。古くから「日の本の夜を守る」聖地として崇敬されてきました。

日御碕神社は日本海間近の山裾に位置し、深い緑の中に姿を現す壮麗な御社殿に目を奪われる。

八雲は稲佐の浜から船で日御碕神社へ向かいましたが、我々がたどるのは海岸沿いの道。切り立った断崖上に続く道路は、カーブあり、アップダウンあり。時に肝を冷やしながらたどり着く日御碕神社は、驚くほど華麗なものでした。
八雲もそのきらびやかな様子を宝石箱のようだとたたえています。

日御碕神社の楼門。この楼門を含む境内の建造物14棟と鳥居2基は、江戸時代初期の寛永年間に、徳川3代将軍・家光の命で造営されたもの。国の有形文化財に指定されている。

この一帯は夕日の美しさも格別です。中でも日御碕神社が鎮座する入江からの夕景は見事。かつて天照大御神を祀る日沉宮ひしずみのみやが鎮座していた経島ふみしま越しに、夕日が落ちる様子は言葉を失うほどです。

日御碕神社の西方に浮かぶ経島。日沉宮の古地であり、毎年8月7日には夕日を背景に神幸みゆきしんが執り行われる。

神が宿る港町・美保関と、八雲のユーモア

海を愛した八雲は、島根半島の東端に位置する美保関みほのせきも気に入っていました。美保関はかつて北前船の風待ち港として栄えた港町。八雲が滞在した当時も出船入船で大層にぎわい、花街もあったほど。八雲も、昼間は眠ったような静かな街が夜になると一変し、港中が酒盛り騒ぎで湧き返ると記しています。

美保神社社頭から続く青石畳通り。石畳の道に、かつての賑わいをしのばせる昔ながらの街並みが続いている。

この港町の中心に鎮座するのが美保神社。ここで御祭神の一柱として祀られているのが、えびす様こと事代主神ことしろぬしのかみ大国主大神おおくにぬしのおおかみ御子みこがみであり『古事記』の国譲り神話に登場する神さまです。

美保神社拝殿。船庫を模した独特の造りで壁がなくはりき出しになっており、周囲を山に囲まれた立地とともに優れた音響効果がもたらされる。鳴物をお好みになる御祭神のための工夫だ。
日本海に突き出た地蔵崎にある鳥居は、美保神社の飛地境内であるおきぜん地之ちのぜん遥拝所ようはいじょ。沖之御前・地之御前は沖合に浮かぶ岩礁で、事代主神が釣りをしていた場所とも。

八雲は地元で聞いた事代主神と鶏にまつわる言い伝えも紹介しています。いわく、美保関の神は大の鶏嫌い。鶏はもちろん卵も美保関では食べないし、持ち込むことも許されない。八雲がそのタブーを承知の上で、宿の娘に卵があるか冗談めいて聞いたところ「アヒルの卵ならあります」という答えが返ってきたとか。八雲らしい茶目ちゃめたっぷりな話です。


潜戸と、一畑薬師――祈りの地へ

日本海の荒波によって穿うがたれた加賀かかくけも八雲の著書の中で印象深い場所です。
日本海に突き出た潜戸鼻の先端にあるのが新潜戸。波の静かな日には舟を乗り入れることができ、八雲もこの洞穴の美しさに目を見張っています。そして洞の中を泳ぎ抜けてみたい衝動に駆られますが、船頭の「サメ!」というひと言に断念。さすがの八雲もサメの脅威には勝てませんでした。

長さ200mの新潜戸内部は広く、天井も高い。『出雲国風土記』には佐太大神さだのおおかみが生まれた場所と記される。

もうひとつ、旧潜戸と呼ばれる洞穴も八雲の心に深く刻まれました。ここは幼くして亡くなった子どもの霊が毎夜訪れて小石を積むのだと伝えられており、砂の上には小さな足跡が残されているのだとか。いとし子を失った親が供養のために供えた花やおもちゃなども点在し、今も訪れる人の心に強い印象を残します。

旧潜戸には地蔵像が点在。夜に訪れる子どもの霊を見守っている。

八雲は「目のお薬師さま」として知られる一畑いちばたやくにも参詣さんけいしています。訪ねたのは松江に来てまもない明治23(1890)年の11月頃。当時としては大金の10円を寄進して大きな御札を受けたと、友人で英国人の日本研究家、チェンバレンへの書簡に記しています。
八雲の「目のお薬師さま」への関心の高さがうかがえます。連れは松江第一の宿、富田屋の女将おかみと目を病んだ女中だったといいます。

一畑薬師は「醫王山いおうざん」の山号をもつ禅刹ぜんさつで開創は894年。島根半島の中心部、標高200mの一畑山上にあり、宍道湖を一望する。

「自分が死にますとも、泣く、決していけません」「悲しむ、私喜ぶないです」「あなた、子供とカルタして遊んでください」。
セツに、そう言い残してこの世を去った八雲。その足跡と言葉は今も出雲地方の各所に残り、私たちに土地の記憶を語り、何が大切なのかを問いかけてきます。
この風景が、いつまでも損なわれることなく、次の世代へ受け継がれていきますように。そう願わずにはいられません。

出典:
小泉八雲『日本瞥見記 上』平井呈一訳 恒文社

参考文献:
梶谷泰之『へるん先生生活記』松江今井書店
八雲会編『へるん今昔』恒文社
『西田千太郎日記』島根郷土資料刊行会
小泉節子、小泉一雄『小泉八雲:思い出の記・父「八雲」を憶う』 恒文社

ライター・エディター。島根県松江市生まれ。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が「神々の国の首都」と呼んで愛した街で、出雲神話と怪談に親しんで育つ。長じてライターとなってからも、取材先で神社仏閣や遺跡を見つけては立ち寄って土地の歴史や文化に親しむ。食と旅、地域をテーマに『BRUTUS』『Casa BRUTUS』『Hanako』などの雑誌やWEB媒体で執筆。