
天正14年(1586)5月、豊臣兄弟の妹・あさひ(演:倉沢杏菜)と徳川家康(演:松下洸平)の婚儀が執り行われました(コラム#40参照)。
しかし、家康はまだ上洛しようとしません。その背景には、豊臣秀吉(演:池松壮亮)に対する家康の警戒心もあったでしょうが、信濃の上田城(現在の長野県上田市に所在)の真田昌幸との間で紛争が続いていたことが大きな要因になっていました。
6月、越後の上杉景勝が、秀吉の許に挨拶に来ます。このとき、景勝に従属していた昌幸は、家康の配下となることが定められました。しかし昌幸はこの命に従いません。
8月、秀吉は家康に「昌幸を討伐せよ。そのために上洛の延期を許す」との命令を出しました。ただ、最終的に昌幸が家康に恭順の姿勢を示したため、家康の出陣は取りやめになりました。
こうして真田問題が落ち着いた9月24日、秀吉と織田信雄(演:山脇辰哉)から、家康の許に上洛を求める使者がやってきました。さらに豊臣兄弟の母・なか(演:坂井真紀)が、病のあさひを見舞うため岡崎に赴くことになりました。
さすがの家康もこれに応え、ついに上洛を決断しました。

なかは当時70歳ほどで、大政所(摂政・関白の母の敬称)と呼ばれる高い身分になっています。この年5月には、高野山や奈良の春日大社の参詣をしますが、体調を崩し、7月ごろまで秀長(演:仲野太賀)の郡山城(現在の奈良県大和郡山市に所在)に滞在していました。
10月12日、なかは大坂を出発します。病み上がりの身で娘の見舞いに向かったわけですが、実質的には上洛する家康の安全を保障するための人質です。
なお、まだ家康上洛の交渉中だった9月末、あさひの女房・茶々御方(コラム#39『言経卿記』の注参照)があさひの使いとして秀吉の許を訪れ、10月1日にはなかにも会っています。徳川方の状況を伝え、さらには下向の供をするための訪問でしょうか。なかも娘の様子がわかってほっとしたと思いますが、気の張る半敵地への訪問、そして長距離の移動はやはりしんどかったことでしょう。
なかが大坂を出発した2日後の10月14日、家康が上洛のため浜松城(現在の静岡県浜松市に所在)を出発しました。このとき奈良では、6万騎ほどの大軍勢で向かっているとの噂が立っていたようで、家康の存在感の大きさが窺われます。
秀吉は最高の官職・太政大臣に 天下一統は目前!

26日、家康一行3000人は大坂に到着し、秀長の屋敷を宿所としました。秀長は前年の信雄 (コラム#36参照)、その少し前に上洛した豊後の大友宗麟、そして冒頭で紹介した景勝の上洛の際も接待を担当しています。
宗麟は、このときのことを次のように家臣たちに伝えています。
秀長殿は私の手を取って、「何事も何事も美濃守かくのごとく候間、心安かるべく候。内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候 御為に悪しき事はあるべからず候 (何事も何事も、私・秀長がこのようにおりますのでご安心ください。内々のことは千宗易[演:吉岡秀隆]が、表向きのことは宰相[秀長]が対応します。あなたのために悪いようにはしません)」と言った。とにもかくにも秀長殿と宗易と親しくして、頼りにするように―― (『大友家文書録』より)
秀吉の弟として、秀長が新たに服属してくる重要人物をもてなし、以後も兄との間を仲介する重責を果たしている様子が窺われます。
さて、家康到着の晩、思いがけないことに秀吉がお忍びで家康を訪ねてきました。
秀吉は『待ちかねた!』と家康の手を取り、奥の座敷に案内して、親しく心の内を語り、家康に酌をし、次に家康が秀吉に酌をし、酌み交わした――
このエピソードは、家康の家臣・松平家忠の日記に書かれています。家忠自身は国許に残っていましたが、4日後の30日には早くもこのような情報が届いています。秀吉が歓待したとの知らせに、成り行きを心配していた家臣たちもほっとしたと思われます。
翌27日、大坂城で正式な対面が行われました。内外に家康の臣従を知らせるパフォーマンスです。秀吉は、家康が「何事も関白殿(秀吉)次第に」と申したこと、そして関東に関する差配を家康に任せたことを、景勝に知らせています。
さらに翌28日、秀長は屋敷で金春大夫に能を演じさせ、家康をもてなしました。
11月5日、秀吉は家康、秀長をはじめ、信雄、甥の秀次(演:山田涼介)らを率いて参内します。家康は秀吉の部下として、正親町天皇に挨拶をしました。そして家康と秀長は、ともに正三位権中納言に昇進します。同時の昇進ですが、序列は家康が先とされました。関白・秀吉のもとで、信雄に次いで家康が豊臣政権のナンバー2に、秀長がナンバー3となったのです。

大坂城で秀吉に挨拶をし、天皇に挨拶、官位昇進、というこの流れは、以降、新たに秀吉に従う大名が臣下となったことを示す儀礼となりました。
7日、正親町天皇が譲位(生前に位を譲ること)し、後陽成天皇が践祚(皇位を継ぐこと)します。譲位や即位など大きな儀礼を行うには臨時に大きなお金がかかるので、戦国時代の朝廷では、資金不足から譲位が行われていませんでしたが、秀吉はこの譲位・践祚、12月の即位(皇位に就いたことを広く知らしめること)を全面的にバックアップしました。おかげで、およそ122年ぶりの譲位による践祚が、華やかに厳かに行われました。
即位の日、秀吉は内大臣から右大臣・左大臣を飛び越え、太政大臣に昇進し、臣下の中で最高の立場で参列しました。
一方、ドラマの家康は、石川数正(演:迫田孝也)に再会していましたね。数正は出奔後、吉輝と改名して領地を与えられ、のちには信濃・松本城(現在の長野県松本市に所在)の城主となります。ドラマでは2人で長生きを誓っていましたが、残念ながら数正は、家康が将軍となる姿を見ることなく亡くなりました。
家康の臣従により、兄弟はまた一段と天下一統に近づきました。
愛知県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所准教授。朝廷制度を中心とした中世日本史の研究を専門としている。著書・論文に『中世朝廷の官司制度』、『史料纂集 兼見卿記』(共編)、「徳川家康前半生の叙位任官」、「天正十六年『聚楽行幸記』の成立について」、「豊臣秀次事件と金銭問題」などがある。