今回も天明末の政変に翻弄される戯作者・狂歌師たちの姿が描かれました。お上に呼び出された大田南畝(演:桐谷健太)は、文武奨励策を揶揄する一首、
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず
が、「そなたの作と噂になっておる」と言われてしまいます。「めでたい歌を詠むことを信条としております。人様を貶める歌は決して詠みませぬ」と主張しますが聞き入れられず、がく然としていました。
有名な「ぶんぶ〜」の歌は南畝作ではなかった
混同されがちですが、匿名で政治や社会を批判することを目的とする落首と、まがりなりにも文芸としてのおもしろさを追求する狂歌とは異なるものです(中世~江戸時代初期の発展段階では狂歌集に落首が入ることもありましたが)。南畝も実際、高らかに「かりにも落書などといふ様な、鄙劣な歌をよむ事なき、正風体の狂歌連中」(天明2年『市川贔屓 江戸花海老』)と宣言していました。
ところが、世間とは口さがないもので、コラム#32でも触れた水野為長(演:園田祥太)が松平定信(演:井上祐貴)のために巷説を集めた『よしの冊子』は、南畝が狂歌の遊びを制止するお上に腹を立てているとか、仮病で出仕を拒否したとか、あることないことが噂されていたと伝えています。ほかにも当時の筆録類からは、狂歌会があまりに華美だということで召し捕られた者がいるなどとささやかれていたことがうかがえます。もちろん史実としてそのような事実は伝えられていません。

くだんの「ぶんぶ」の歌がいつ頃から人口に膾炙し、南畝の作と語られるようになったのか、正確にはわかっていません。ただ、白河藩家老の服部半蔵正札(演:有吉弘行)が日記『世々之姿』寛政3年4月の条に、南畝罷免の風聞とともに下の句を「文武々々と夜るもねられず」として書き留めていることが指摘されています。
南畝自身は、10余年後の文化期なかば(1810〜1815頃)になって、ある写本随筆にこの歌を見いだしています。それは享和元年(1801)の序文とともに著された『野翁物語』。巻二「流行落書之事」で「牛込大田直次郎(南畝のこと)が戯歌」とし、下の句は「ぶんぶといふて身を責るなり」となっていました。南畝はそのことを『一話一言』に記し、以下のように付記しています。
是、大田ノ戯歌ニアラズ偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ。落書体ヲ詠シハナシ。(南畝自記)
カタカナ交じりの謹直な表記を用いた書きぶりからしても、何より南畝のそれまでの言動に照らしても、ここに嘘はないと南畝研究者は考えています。近年まで高校の日本史教科書などにも南畝作として載せるものがありましたが、これを機にそのような俗説が一掃されてほしいものです。
美麗の極致!歌麿の『画本虫撰』が誕生するまで
ドラマはここからの展開が秀逸でした。たかが蚊の歌で南畝先生が咎められたのだから、虫の歌で意趣返しをしようとばかりに、喜多川歌麿(演:染谷将太)描く絵入狂歌集『画本虫撰』の着想に結びつくという意想外の筋書きは、私ども専門家もうなるものでした。

『画本虫撰』は、天明8年正月宿屋飯盛(演:又吉直樹)の序文によれば、八月十四日に秋の虫の音を聞こうと隅田川沿いの向島の庵崎で開いた狂歌会の成果といいます。また「故ありて酒と妓とをいましめ」と、まじめに実施したことを強調したこの会、あるいは狂歌会の華美が問題視されかねない時勢をにらんでのことでしょうか。
こうした舞台設定からすると秋の虫だけが対象かと思いきや、蜂や芋虫、蝶などのさまざまな虫、さらに蛙、とかげや蛇など、当時その類と考えられたものまでもとりあげ、それぞれに関係する語彙で恋の心を詠むという趣向です。
秋の虫に限らずさまざまな虫を題に恋の歌を詠むというこの発想は、江戸時代初期の歌人木下長嘯子による『諸虫歌あはせ(虫の歌合)』にならったものです。また5年ほど前の天明2年8月に、江戸の和歌の歌人たちが先んじて「十番虫合」を実施したことも耳に入っていたでしょうか。

ドラマでは、この『画本虫撰』のうち「毛虫」を題とする四方赤良(南畝の狂歌師名)の歌が紹介されていました。
毛をふいてきづやもとめんさしつけて きみがあたりにはひかゝりなば
あら探しをすることをいうことわざ「毛を吹いて傷を求める」(『韓非子』「毛を吹きて小疵を求めず」より)を使って、「君にアプローチしたら、まるで毛虫の毛を吹いて下に隠れた傷を探すように僕のあら探しをするんだろうね」という恋する相手の反応を悲観する歌です。
これは巻頭図(下図)に載せられた2首のうちの1首で、もうひとつは「尻焼猿人」こと、姫路藩主酒井忠以の弟忠因、すなわち若き日の琳派の絵師酒井抱一でした。

photograph ©The Fitzwilliam Museum, University of Cambridge.
尻焼猿人の歌は「こハごハにとる蜂のすのあなにえや うましをとめをみつのあぢハひ」(意訳:恐る恐る蜂の巣を取ってみると、巣の穴からうら若き乙女の蜜がこぼれてくる)。
「倹約ばやりの世の中に、目玉が飛び出るほど豪華な狂歌絵本」を出したいという蔦重(演:横浜流星)のたっての希望の通り、ドラマでは、蝶などに施された雲母の輝くさま(下図のアップ2点)が再現されていました。原作はそれ以上に、初摺りの保存状態のいい本をいちど目にしたら忘れられない美麗さで、図版ではお伝えできないのがもどかしい限りです。

(2点とも)ケンブリッジ大学フィッツウィリアム美術館蔵
photographs ©The Fitzwilliam Museum, University of Cambridge.

photograph ©The Fitzwilliam Museum, University of Cambridge.
狂歌が先か、絵が先か? かいま見える歌麿の遊び心
さて、ドラマのなかでは歌麿の画稿が先にあったことになっていました。これは「人まねでない」ものをめざして草花の写生に励んだ末にたどり着いた「俺ならではの絵」として必要な設定でした。
ただ、実はその先蹤といえる作が指摘されています。とりわけ、歌麿の師・鳥山石燕(演:片岡鶴太郎)の『鳥山彦(石燕画譜)』(安永3年[1774]、遠州屋弥七板)にみえる、豆の花と蓮の葉に載せたなすびに乗ったバッタの絵(下図)は歌麿も目にしていたものでしょう。

『画本虫撰』に限らず、狂歌絵本において絵と狂歌のいずれが先に成ったかは単純な問題ではありません。一般に企画者が狂歌師たちに出資を募るにあたって、版下絵までは必要ないでしょう。また絵師に下絵を発注する時点で歌が出そろっている必要もなく、全体の企画と題があれば依頼できるはずです。
『画本虫撰』の場合はどうだったのでしょうか。もちろん、絵師に提示されたのは企画と各図の題だけだった可能性もありますが、狂歌の内容と絵が相関しているようにみえる例もあります。
一つは、さきに挙げた蝶やとんぼの絵にある稀年成の一首、「夢の間は蝶とも化して吸てみむ 恋しき人の花のくちびる」(せめて夢のなかで蝶になって恋しいあの女性の、花のように美しい唇に吸いつきたい)です。まさに、歌に詠まれているように蝶が花に吸い付いています。
ほかにおもしろいのが、螻蛄とはさみ虫の場面です。

photograph ©The Fitzwilliam Museum, University of Cambridge.
狂歌は以下の2首。
けら やなぎはらむかふ(柳原向)
あだしみはけらてふ虫やいもとせの ゑんのしたやにふかいりをして
はさみむし 桂眉住
みし人を思ひきるにもきれかぬる はさみむしてふ名こそ鈍けれ
柳原向は、「はかない我が身はまるで螻蛄という虫だろうか。まるで縁の下に深く潜む螻蛄のように、妹背(男女)の縁の下に深入りをしてしまって」と、深入りしてはならない女性との仲に悩む男を詠みますが、たしかにタケノコの下に描かれた螻蛄は実らぬ恋にがっくりと肩を落としているかのようです。
桂眉住も、「一目見たあの人を思いきろうとしても思いきることができない、はさみ虫などという名前でもその切れ味の鈍さときたら」と、叶わぬ恋の思いを断ち切ることができない身を嘆きますが、描かれたはさみ虫も尻尾のハサミを振り立てて絶叫するかのようです。
絵を見て、狂歌師たちはこのように詠んだのか、あるいは狂歌に触発された歌麿の遊び心か。わざとらしくも見える虫たちのポーズから、後者のように思えてこないでしょうか?

参考文献:
高澤憲治『松平定信政権と寛政改革』(清文堂出版 2008)第2部第4章
『大田南畝全集』第16巻 (岩波書店 1988)『一話一言』補遺 参考篇2
盛田帝子・ロバート・ヒューイ編『江戸の王朝文化復興 ホノルル美術館所蔵レイン文庫『十番虫合絵巻』を読む』(文学通信 2024)
鈴木重三「歌麿絵本の分析的考察」(美術出版社 1979)『改訂増補版 絵本と浮世絵』(ぺりかん社 2017)
法政大学文学部教授。日本近世文芸、18世紀後半~19世紀はじめの江戸文芸と挿絵文化を研究している。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。2003年に第29回日本古典文学会賞、2023年に第17回国際浮世絵学会 学会賞を受賞。著書に『天明狂歌研究』(汲古書院)、『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』(角川ソフィア文庫)、『へんちくりん江戸挿絵本』(集英社インターナショナル)など。