NHK財団では、情報空間の課題の解決や、一人ひとりが望む「情報的健康(インフォメーションヘルス)」を実現するためのアイデアを、社会実装へとつなげていく取り組みとして、「インフォメーション・ヘルスアワード」を開催しています。
(詳しくは財団の公式サイト「インフォメーション・ヘルスアワード」をご覧ください)
※ステラnetを離れます
第3回の募集は、先月(2025年9月)末日を持って締め切らせていただきました。幅広い年代のみなさまからたくさんのご応募をいただき、ありがとうございました。詳細は後日ご報告いたします。
今回は、アワードの選考委員であり、憲法学の観点から情報空間の健全性について発信を続けている、慶應義塾大学の山本龍彦教授に、アテンション・エコノミーと個人の尊重をめぐる課題、そして「情報的健康」の重要性についてお話を伺いました。

――連続テレビ小説「あんぱん」が終わりました。ドラマでは戦前から、戦後への価値観の転換と、それによって苦悩する主人公が描かれました。日本国憲法が誕生したのもこの時です。
学生の皆さんにはこの憲法に込められた考え方を、どのように伝えていらっしゃいますか?
山本 日本国憲法の内容を見ると、「個人を尊重する」という考え方が非常に強く打ち出されていると思います。憲法第13条には「個人の尊重」が明記されていますし、第24条第2項にも「個人の尊厳」という言葉が使われています。
「個人」という存在を尊重し、守っていくという考え方が、わたしたちの憲法では強調されているわけです。
これは、戦前の全体主義的な価値観に対する強烈なアンチテーゼにもなっています。戦前の日本では、個人は「全体のため」「お国のため」に奉仕し、時に「全体」のために犠牲になる存在ともされました。国家の目的を達成するための手段、あるいは道具のように扱われもした。
それに対して、戦後の日本国憲法では、個人一人ひとりがかけがえのない存在として尊重されなければならない、という考え方が刻み込まれたわけです。この「個人の尊重」という考え方こそが、日本国憲法の根幹をなす重要な柱だとわたしは思っています。
情報空間では「全体最適」のために個人が“データ化”される
――情報化社会の中で個人はどのように扱われているのでしょうか?
山本 データが大量に集まることで「集合知」が構築され、社会全体の発展につながるという考え方があります。例えば医療分野では、良い薬や治療法を開発するために、患者の個人データを集めることがとても重要です。医療情報や個人情報の取り扱いに関する議論では、「個人が自分のデータをどう扱うかを自分で決めるべきだ」という考え方がある一方で、「社会全体のためにデータを提供するのは当然だ。それこそがデータ駆動型社会なのだ」、という意見も強くなっています。医療の発展の必要性を否定する者はおらず、信頼に基づきデータが集積されていくことはもちろん重要なのですが、社会全体の発展のために個人の意思を犠牲にしてもよいという考え方は「個人の尊重」の観点からやはり危険だと思います。
これはAIの発展を考える際にも頭に入れておくべきでしょう。AIも、より多くのデータを集めることで精度が上がり、社会全体の効率が向上すると考えられています。
先日、法哲学者の大屋雄裕先生(慶應義塾大学法学部教授)が興味深いお話をされていました。
現在のカーナビは「その車にとって最短のルート」を案内するが、今後ネットワーク化が進み、AIが介在することで、「道路全体の効率性や全体福祉を考慮したルート」を案内するようになるかもしれない、と。
AI化やネットワーク化が進むと、個人の最適よりも「全体最適」が優先されるようになるのではないか、という問題提起ですね。
大屋先生は、あくまでカーナビの話、モノの話をされていましたが、「人間」にも応用可能なエピソードのように思いました。確かに交通については、「全体最適」を考えてもいいかもしれません。しかし、個人がネットワークに常時接続され、データとして定量化されてAIにより自動分析されるようになると、個人の幸福追求にとって最適なアドバイスではなく、社会全体の利益や社会厚生の実現にとって最適なアドバイスがなされるようになるかもしれない。例えば、「あなた自身はこういう職業を望むかもしれないけど、社会全体にとってはあまり生産的ではないので、社会厚生のためにはこちらの職業を選択しましょうよ」と。
こうした考えを突き詰めると、戦前の「個人が国家のために犠牲になる」という思想にも近づきます。「個人」が「システム全体」のなかに溶け込み、日本国憲法が掲げる「個人の尊重」が希釈化されるからです。
個人が、あるいは「わたし自身」が「どう生きたいか」という目的のためにデータがある、という個人中心の思考と、全体の最適化のため、AIの進化・発展のためにデータがある「個人がAIの進化のためにデータを提供するのが当然」という全体論的な思考が、今まさにぶつかり合っているように感じます。デジタル化の現場を近くで見ていると、後者の発想が少しずつ優位になっている印象もあります。
――全体最適のために“選択させられるかもしれない”……ちょっと怖い世界ですね。
山本 データサイエンスの世界では、何の悪意もなく、「効率性」や「生産性」、「社会厚生」といった価値観が語られがちです。「世の中のためになる」と信じて純粋にこうした価値観が追求されていることも多い。ですから、そうした主張自体を一方的に否定することはできません。
しかし、そうした価値観が無批判に受容された世界では、プライバシーの観点から「自分のデータを出したくない」と権利主張する個人は強く非難されるようになるかもしれない。そうした自己決定は、データの欠損やノイズを生み、AIの精度を落とすことになるからです。
憲法の「個人の尊重」から議論を始めることで、「全体最適」や「社会厚生」という美辞に含まれる全体主義的なリスクを前景化し、「それだけではないかも」という気づきにもつながる。それにより建設的な対話が生まれることを期待しています。
“アテンション・エコノミー”が個人の尊重を侵害する
――SNSの世界も同じようなことが起きているのでしょうか?
山本 現在の情報環境、特にSNSの世界は、全体最適が純粋に追求されるわけでもない。そこでは経済的動機が大きく影響しています。
たとえば、SNSのプラットフォームは、「アテンション・エコノミー」と呼ばれる経済モデルによって運営されている面が強い。そこでは、ビジネスとしてユーザーの「アテンション(注意)」をひく、「エンゲージメント(関与)」を最大化することに全力が注がれるので、耳目をひく刺激的なコンテンツがアルゴリズム上優位に扱われ、結果として過激な言説や扇動的な投稿が目立つようになります。
さらに、このような環境では、データやAIを用いて、個人の趣味嗜好や精神状態などがこまかく分析され、そのユーザーがクリックするであろうコンテンツが積極的にレコメンド(おすすめ)されることになる。ユーザーとしては、思わず注意を向けてしまうような刺激的なコンテンツを、自分の属性や精神状態に合ったかたちで送られてくるので、ついついそれに反射してしまうということが日常的に起きています。
――わたしたちは自由にコンテンツを選んで楽しんでいるつもりでも、結果として選ばされている、自由を失っている、ということになりますね。
山本 たしかにそういう面はあると思います。わたしたちは、このアテンション・エコノミーの世界の中で、常に強い刺激に晒され、反射させられている。そうなると、主体的に自ら情報を選択している、というより、実験動物のように反射する「対象=客体」のような存在と化してしまっているとも言えそうです。そこではユーザーは“尊厳をもった誰か”ではなく“単なるモノ”として扱われているようにも感じます。しかも、そのことにわたしたち自身が気づいていない。
「無自覚な隷属」が最も深刻な人権侵害

山本 アメリカのある憲法学者が、「意識的な隷属」と「無自覚な隷属」のどちらがより人間の尊厳を損なうかという問いを立てています。難しい問いですが、彼は、無自覚な隷属の方が、より尊厳を毀損するのだと述べています。
今の情報環境では、ユーザーは自覚のないまま、アルゴリズムに反応させられ、ドーパミンを分泌させられている。ショート動画を見続けて、本人はむしろ快楽を味わっているかもしれないわけです。
この無自覚な隷属こそ、最も深刻な現代的課題なのではないかと思います。
――アルゴリズムに抗うことは、正直言って難しそうな気がします。
山本 そうですね。リテラシーが高いはずのわたしでさえ、もともとの意思に反してショート動画を30分、1時間と見続けてしまうことがあります。それだけアルゴリズム・AIが強力だということでしょう。顕在的にも潜在的にもわたしが「見たい」と欲求するものを予測し、絶妙な順番でレコメンドしてきていますからね。認知的にまだ脆弱な子どもなどは、なかなかそうしたAIに抗うことは難しいでしょう。プラットフォーム上で、動画などは無料で視聴できるわけですが、何も払っていないわけではない。確かにお金は払っていませんが、お金と同じぐらい貴重で有限な時間やアテンションを「払っている」わけです。こう考えると、子どもたちは無自覚なまま、一度しかない「子ども時代」を奪われていることになります。
――欧米やオーストラリアのような、SNSに対する規制に関してはどうお考えですか?
山本 こうしたSNS依存・SNS中毒などを受けて、世界中で子どものSNS利用を制限する立法ができ始めています。オーストラリアでは16歳未満の子どもによる特定のSNSの利用を禁止する法律が制定され、2025年の12月から施行されます。デンマークも15歳未満の子どものSNS利用を禁止する立法を行うようですし、EUもオーストラリアの立法の動向を見ながら、積極的に検討する方針のようですね。ただ、これからのデジタル社会ではSNSはコミュニケーション・ツールとして不可欠なので、禁止というのは劇薬のようにも感じます。子どもの表現の自由や知る自由との観点で、慎重な検討が求められるのではないでしょうか。
他方でアメリカでは、ミネソタ州が、SNS利用がメンタルヘルスに悪影響を与える可能性があるとして、リスクに関する警告表示を義務づける法律を制定しています。これは、タバコやアルコールのパッケージに健康への影響を表示する制度に近く、情報の摂取に対する注意喚起としての役割を果たそうとするものと言えます。どのように情報を摂取するかに関する合理的で自律的な選択を促す「情報的健康」の考えにも近い。

――第3回インフォメーション・ヘルスアワードでは、情報空間の課題に真正面から向き合ったアイデアの応募が増え、さらに年齢層の広がりも見られました。
山本 すばらしいですね。世代によって関心の持ち方や世界観も異なるので、幅広い世代からの応募があったことは喜ばしいことだと思います。
情報空間の課題に向き合ううえで、「情報的健康」の視点は重要です。わたしたちが今、どんな情報をどのように摂取しているのか、そしてそれがどんな仕組みで届けられているのかを自覚することが、その第一歩になると思います。
わたしたちは食べ物を摂取する際に、その食べ物がどこで、誰が、どのような材料を使って作ったのかを気にします。それと同じで、摂取しようとする情報が、どんなプロセスで生成・編集・配信されているのか、誰が作ったのか、人間かAIか、どんな意図があるのか。そうした情報の来歴を理解しようとすることが、情報的健康につながります。そのためには、食べ物の成分表示や産地表示のような、「情報の栄養表示」も有用でしょう。
さらに、わたしたちの閲覧履歴や行動データがどのように収集・分析され、レコメンドに使われているのかという「情報の循環構造(エコシステム)」を理解することも重要です。このサイクルの根源を知ることで、情報環境に対して自覚的に向き合うことが可能になります。
今回の話の中で出てきた「無自覚な隷属」や「実験動物のような扱い」といった問題意識は、まさにこの情報的健康の根幹に関わるものです。だからこそ、アワードの出口として、「気づき」を促す仕組みや「自分が置かれている情報環境を見直すきっかけ」を与えるようなアイデアが、重要な意味をもってくるのではないかと思います。
今のわたしたちはアテンション・エコノミーのもとで、情報を一方的に摂取させられているような状況にあると思います。次々と「高カロリー」な情報を他律的に与えられているといった感覚です。本当はもうお腹一杯なのに、「まだ食べろ」と情報がどんどん口に運ばれている。この構造は、個人を尊重し、その尊厳に配慮しているとはいえません。
だからこそ、情報摂取において主体性を取り戻す「情報的健康」の取り組みが、わたしたちの尊厳回復のためにも必要ということになるのではないでしょうか。
(取材・文 社会貢献事業部 木村与志子)
(お問い合わせはこちら)。※ステラnetを離れます